第9話 ひび割れた仮面
週の半ば、店は少し落ち着いていた。
週末ほどの熱気はない。
けれど、静かな夜ほど人の本音は出やすい。
俺は鏡の前で身なりを整えながら、
真田さんの言葉を思い出していた。
──「感情を消しても
人はいつか“本音”を預けたくなる」
その声が、まだ胸の奥で響いている。
内勤スタッフから呼ばれて俺は我に返った。
「カインさん、B卓指名です。美穂さんです」
「了解」
いつも通り。
“仕事の顔”を貼り付ける。
だが美穂が相手だと調子が狂う。
その点、少し陰鬱な気分になった。
今日も白い服だった。
けれど、ドレスではない。
柔らかなシャツに、軽い香り。
いつもよりも“現実の女”の匂いがした。
「こんばんは、運命の人」
冗談めかした声。
それでも、胸の奥に針が刺さる。
「また来てくれたのか」
「来ちゃいけなかった?」
「…そういうわけじゃない、嬉しいよ」
隣に座った美穂が、
小さく笑ってシャンパンを注文する。
今日のシャンパンはソウメイだった。
「今日は、仕事の顔、ちゃんと見せてね」
「仕事の顔?」
「うん。昨日の夜みたいな顔、してないで」
「昨日の夜って何だっけ?」
「ここの裏口で、スマホ見てたでしょ?」
その瞬間、手が止まった。
「見られてたのか」
「ごめん、偶然通った時に見ちゃった。
あれがカインくんの“本当の顔”なんだね」
俺は言葉を失った。
美穂は笑って、グラスを軽くぶつけてきた。
「だから、今日はちゃんと見せてよ。
“仮面のカインくん”を」
「…こりゃかなわないな」
笑って返した。
でも、喉の奥がひどくひりついた。
どうにかそのあともいつも通りの接客をした。
客の笑顔を引き出し、
冗談を言い、グラスを満たす。
“完璧なホスト”を演じた。
しかしふと視線を向けると、
美穂がこちらを見ている。
ヘルプと話していても
ずっと俺の表情を追っていた。
まるで、「本当の顔を見せて」と
言わんばかりに。
「カイン、IQOSの充電終わったぞ」
優斗の声に振り向いた瞬間、
俺はうっかりグラスを落とした。
ガシャン、と音が響く。
店内が一瞬静まった。
「悪い、手が滑った」
笑って誤魔化す。
その小さな揺れを、
美穂だけが見ていた。
彼女は何も言わず、
ただ静かに微笑んだ。
その笑顔の奥から神崎海斗としての
自分を全て見透かされているように思えた。
──そして俺は気づいてしまった。
自分もまた今、“仮面の中”から
彼女を見ていることに。
仕事としての笑顔の奥で、
本音が顔を出そうとしていた。
夜が、世界が、そして美穂が
俺を試している。
真田さんの言葉が、また頭に響いた。
「境界線を越えたら、もう“商売”が出来なくなる」
だが、心のどこかでわかっていた。
俺はすでに境界線の足もとまで
来てしまっていることを。
──俺の足元の何かが
静かに、何かが揺れ始めていた。
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