異人奇譚外伝 ―愛を測る手―
大法螺 与太郎
異人奇譚外伝 ―愛を測る手―
──居酒屋 常夜──
居酒屋〈常夜〉のカウンターで、与太郎は静かに耳を傾けていた。
珍しく酔客が絡んでいる。
「与太さん、聞いてよ。女房が──ホストに入れあげちまって、家に帰ってこねぇんだ。」
酔客の、ずいぶん寂しくなった頭に提灯の灯がゆれる。
「いや、落ち着けって。
お前がどかんと構えて、女房が目が覚めたとき、あったかく迎えてやりゃいいんだよ。」
与太郎は酔客の肩を軽くたたき、コップに酒をつぎ足した。
「出ていったわけじゃねぇ。
ちゃんと“お前”っていう居場所があるから、帰ってくるのさ。
……まてよ、そういやこんな話もあったっけな──。」
◇ ◇ ◇
空港ってのは、いつの時代も人を感情的にする。
滑走路を見渡すラウンジのカウンターに座り、
最近買った電子タバコをくわえて新型の機体を眺める。
太陽パネルを積んだその機体は、成層圏を飛ぶって話だ。
電子タバコのデバイスが起動し、脳波を読み取る。
瞬時に最適な配合で脳を活性化させる蒸気が生成され、肺深くまで吸い込む。
感情の波が平坦になり、静かな風が吹いているようだった。
最近じゃ、なんでも脳科学だ。
仕事のストレスも、月曜の憂鬱も、
はては夫婦の“寝るタイミング”すら管理しやがる。
カウンターにウィスキーが置かれる。
「少し感傷的な表情をされていますね。
お話をお聞きしましょうか? それとも──
幸せホルモンが出るようなカクテルをお作りしましょうか。」
AI搭載のバーテンダータイプのロボットが話しかけてくる。
俺は蒸気を吐き出し、無視を決め込んだ。
今日この場所で、十年続いた結婚生活は終わる。
よくある話だ。
仕事と家庭の両立、それができなかった。ただそれだけのこと。
俺は図書館の司書をしている。
図書館なんて、人が本を借りに来たのはもう百年も前の話だ。
この仕事だって、好きで始めたわけじゃない。
適性を見て、政府が決めた。
じいさんとばあさんは無類の読書好きだった。
懐古的で、骨董趣味で、紙の本が好きだった。
今じゃ紙の本なんて見かけるのは博物館ぐらいなもんだ。
実際に行ってみろ、ガラスの向こうに鎮座してる。
でも俺は、実際に“紙の本”を見て、触ったことがある。
だから司書に選ばれた。──恐らく人類最後の司書だ。
仕事は単調だ。
世界各地に残った最後の紙の本を読む。
脳波を測定し、俺の感情をデータ化してAIがレビューを作成、
世界図書館のサーバーにアップする。
紙の本を読むのは楽しかった。
何より、じいさんとばあさんを思い出す。
本に触れているとノスタルジーを感じる。
……実際は、ドーパミンとオキシトシンのカクテルを脳が飲んでるだけだけど。
そうして、俺は紙の本にはまっちまった。
家に帰るのが遅くなり、泊まり込みも増えた。
ある日、女房に離婚を切り出された。
流行りの“AI離婚”ってやつだ。
「あなたよりAIのほうがいいの」──笑ってそう言われた。
ふと、カウンターに立つバーテンダー・ロボットが目に入る。
こいつをぶん殴ってうさを晴らしたくなった。
でも──しない。
人間と同じ皮膚の柔らかさでも、中身は鋼鉄だ。
殴れば即SNSに流れ、社会信用ポイントはゼロ。終わりだ。
そういえば最初に人間を脳科学で支配したのは、SNSだったってさ。
くだらないことを考えていたら、女房が後ろに立っていた。
カウンターに静かに座る。
俺と女房は幼なじみで、よくオンラインでつるんでた。
女房がまだ男だった頃の話だ。
こいつだって、本当は寂しかっただけなんじゃないのか。
ある日、家に帰ると──
拡張現実デバイスを目にかけて、一人で空気を抱きしめていた。
なぁ、温もりを感じたのかい。
今、改めて女房の顔を見る。
素直に、美しいと思う。
このままAIに取られていいのか。
ふいに、紙の本の感触が手によみがえる。
触れることの素晴らしさを、この時代でも人は思い出せるはずだ。
女房の手を、両手で握る。
「なあ、このまま俺たち、終わっちゃだめだ。
目を閉じて、俺の手の温かさを感じてくれ。
血の通った、人間の心だ。」
女房が俺の目を見て、少し微笑む。
そして静かに言う。
「あなたも、目を閉じて。……あたしの気持ち、分かるはず。」
すっと手が離れ、今度は女房が俺の手を両手で包み込む。
温もりが、俺を包んだ。
こんな時代でも、人の手の温もりは残っている。
まだ俺たちは、終わってなんかない──。
「お客様。そろそろ手を離してよろしいでしょうか。
もうオキシトシンが脳をリラックス状態にした頃です。」
目を開ける。
バーテンダー・ロボットが、やさしく微笑んでいた。
その手の温もりは、俺を凍り付かせた。
◇ ◇ ◇
──居酒屋 常夜──
「なぁ与太さん。女房、帰ってくるかな……」
与太郎は笑った。
「さぁな。お前の手のぬくもりを、ちゃんと覚えていれば──
帰ってくるんじゃねぇか。」
そう言って、ゆっくり酒をあおった。
「与太さん、俺、女房の手なんて……もう何十年も握ってねぇよ。」
与太郎は、青ざめた顔をした酔客に、苦笑いを返した。
異人奇譚外伝 ―愛を測る手― 大法螺 与太郎 @kai0720
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