29.サービスカット

腹を満たしたらお風呂だ。

とは言ってもこの宿の部屋には

シャワーなんて洒落た物はなく、

少し大きい寸胴くらいの桶と

手で持てる小さな桶があるだけだった。

寸胴くらいの桶は床に固定されており、

その桶に伸びる蛇口も動かせない。

こちらの桶にお湯を溜めてから

小さな桶で掬うタイプらしい。

ただ、そのシステム自体は別にいいのだが、

日本で生まれ育った凛太郎は

シャンプー類がないことにショックを受けた。

別段オシャレに気を使っている訳ではないが、

いつも使っている物がないというのは

それなりに堪えるものである。

そして、ショックを受けている凛太郎に

日々和は察して声をかけてくれた。


「シャンプー用の植物があるけど、

ちょうど今は切らしてるわ。

少しくらい我慢しなさい。」


「くっ……!無念だ…!」


さすがはこの世界の先輩なだけはある。

自分の生活のためにもこの世界に来た時に

元いた世界にあった物と似たような何かを

探していたのだろう。

シャンプー用の植物という

あまりに聞き慣れない言葉にこそ驚いたが、

ここは元より異なる世界だ。

そのような植物があったところで

不思議に思うことはない。

時間が空いたら必ず探しに行こう。


「木瀬が先に入りなさい。

私は今魔法使えないから、

水をお湯に変えられないのよ。」


お風呂に入るだけだというのに

魔法を使う必要がどこにあるのか。

その謎の答えを手に入れるためにも、

凛太郎は風呂場へ行って蛇口を捻る。

たった一つしかない蛇口を。


「なるほど、こういうことか。」


一つしかない蛇口からは水しか出ないのだ。

それもキンキンに冷えた水。

軽く手を突っ込んでみただけで

全身の体温が奪われるようだった。

こんな物を頭から浴びていては、

魔王に辿り着くよりも前に

死んでしまいそうだ。


「威力は抑えて…軽く温める程度に……。」


桶に冷水をいっぱいに溜めたら、

その中で火の魔法を使う。

攻撃以外にも料理や諸々のことに

使えると思って修得していたが、

こんなところでも役に立つなんて思わなかった。

いい温度に温まるまで微調整しながら

魔法を使っているうちに、

桶の中から湯気が立ち上り始める。


「…よし。」


全身の服と装備を脱ぎ捨て、

小さな桶に汲んだお湯を浴びる。

体の汚れと心の穢れが洗い流され、

文化人らしい感覚の快感が走る。

シャンプーもなければ

全身で浸かることもできないが、

それでもこの感覚は素晴らしい。

長い間忘れていたが、

やはりお風呂とは良い物だ。

しかし、幸せが長く続かないように、

お湯の温もりもまた終わりがやってくる。


「もう冷めてやがる…だと……!?」


保温機能のないただの桶なので、

時間が経つ度に温度は下がっていく。

もうしばらくは満喫したかったのだが、

冷えていく水を浴び続けるのは

せっかくの幸せを流すのと同義だ。

いつか浸かれる時を夢見て、

ここは潔く上がるしかない。


「タオルはどこだ…?」


風呂場から出ようとした凛太郎。

だが、タオルが見当たらない。

脱いだ服を置いている脱衣所の棚や

色々なところを探してみるが、

それらしい布がどこにもない。

ここが日本の旅館であれば

タオルの2枚や3枚は当たり前に

置いてあると思うのだが、

生憎とここは異世界のただの宿屋だ。


「受付でもらったタオル渡すの忘れてたわ。

悪かったわね、木瀬。」


……こういうことが起こってしまうから、

二人で同じ部屋に泊まるのに

凛太郎は素直に賛成できなかったのだ。

脱衣所へ繋がる扉を開け、

日々和がその中へ視線を向ける。

当然そこには風呂上がりで

全裸姿の凛太郎がいて、

その姿を余すことなく目に映すことになる。

凛太郎の体は全体的に細身だが、

それはローブで隠れているのと

彼の暗殺者という職種によって

勝手にイメージされたものに過ぎない。

実際の彼の体は筋骨隆々でこそないが、

それぞれの筋肉が己を主張している。

腹筋はワンブロックずつが

お互いの壁を確立しており、

太くたくましい上腕から伸びる前腕は

武器を握ることもあってか特に発達している。

暗殺者としての素早さの要である足は

武器を使わない時は蹴りに用いるので、

しなやかながらも強い。

そして、ユニークスキルもあって

存在感のない凛太郎だが、

彼の股からぶら下がっている

漢の剣はその支配下に収まっていない。


「……ちょうどタオルがなくて困っていた。

ありがとう。ありがたいんだが、

早く扉を閉めてくれると助かる。」


凛太郎の肉体美に見蕩れていたのか、

それとも違うところを見ていたのか。

日々和は顔を赤く染めながらも

凛太郎から目を離す気配がない。

女の子からこんなにも熱心に

見つめられたことがないので

凛太郎は満更でもないのだが、

その扉が開けっ放しになっていると

せっかく温かくなった体も

冷えてしまうではないか。


「えっ、あ、そ、そうね…っ!

タオル、ここに置いておくから!」


タオルを床に叩きつけるように置くと、

扉を閉めずに日々和は走り去っていった。

そういえば聞いたことがなかったが、

日々和に男性との経験はあるのだろうか。

先程は不意に男の裸を見たというのに

日々和は悲鳴をあげたりしなかった。

そうなるとない訳ではないのだろうか。

それなら、この後顔を合わせた時は

いつも通りの態度を取る方が

お互いのためだろう。

そんなくだらないことを考えながら、

凛太郎はタオルを拾った。


「……はわわわ………。」


凛太郎が呑気にしている間、

日々和は一人で部屋の隅に縮こまって

脳裏に焼き付いた光景を思い出しながら

鼻から溢れる血を抑え込んでいた。

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