第3話:失敗した熱力学

1.

 前回の配信後、カイは「熱と収縮(焦り)」のデータを徹底的に解析した。結論として、彼は新たな仮説を立てた。

「感情は、計算外の事態(不完全さ)によって引き出される、一種の防御反応としての熱エネルギーである」

そして、彼はこの仮説を検証するための「実験」を計画した。それは、意図的に技術的なミスを引き起こすのではなく、より高度な方法、すなわち「感情的な反応」をシミュレートするというものだった。彼は、感情を「発生源を偽装できる熱源」として扱おうとしたのだ。

配信開始までの間、カイは誰もいない部屋で練習を重ねた。

「あぁ、危なかった……!(驚き)」

「くそ、想定外だ(落胆)」

彼の声は完璧な棒読みだったが、カイは気にしなかった。重要なのは、感情のデータが外部へ送信されることであり、その発生源の真偽は、論理的には問題ではなかった。


2.

 第3回配信が始まる。「無感情な天才KAI.」は、配信界隈で既に大きな話題となっていた。リスナーたちは、今日も彼の超人的な技術と、それに伴う無機質な反応を期待していた。

カイはレースをスタートさせる。技術は依然として完璧だ。しかし、今回は彼の冷静な声に、意図的にノイズが混じり始める。

レース中盤、単なる緩やかなカーブを曲がる瞬間。

「あぁ、危なかった……!」

カイは、マニュアル通りに、わずかに震える声を演出しようとした。車体は安定しており、危険性はゼロ。しかし彼は、人工的な「驚き」をリスナーに投下した。

コメント欄の反応は即座だった。

「え、今のどこが危ないの?」「バグった?」「今の運転、完璧だったぞ」「棒読みすぎだろKAI.」

カイの演技は、彼の卓越した技術という文脈と全く釣り合わず、すぐに「フェイク」として認識された。

さらに、ライバルにわずかに抜かれた際、カイは唇を噛むような音をマイクに乗せ、「くそ、想定外だ」と落胆を装った。

「おいおい、急にどうした?」「AIのバグか?」「前の無口な方がマシ。これは見てて寒い」

リスナーの熱は冷め、興奮は困惑へと変わった。カイが作り出した「偽物の熱」は、視聴者の心に何の影響も与えなかった。


3.

 配信の空気が冷め切った時、例の「制御因子」が再び現れた。ソラフネからのコメントだ。

ソラフネ:「KAI.さんの偽物の『熱』は、あなたの無言よりも冷たいよ。まるで、誰もいない部屋の消し忘れたヒーターみたいだ」

このコメントは、カイの試み、つまり彼の論理的な行動そのものを完全に否定するものだった。

その瞬間、カイの胸の奥に、前話の「焦り」とは全く異なる、鋭い「収縮」と、全身に広がる「熱の奔流」を感じた。それは、自分の努力(論理的シミュレーション)が、他者によって不当に否定されたことへのどうしようもない「不満」と、人前で愚かな失敗を晒したことへの「居心地の悪さ(恥)」が混ざり合った、初めての、名前のない不快な感情だった。

感情の熱に、理性が一瞬支配される。彼は悟る。感情は、論理的にシミュレートしたり、操作したりできる「熱源」ではない。それは、他者との相互作用の中で、意図せず爆発的に発生するものである、と。


4.

 カイはプレイを中断し、突然配信を終了した。

画面が暗転した後、彼はマイクに向かって、誰に聞かせるでもなく、静かに呟く。

「……解析不能だ」

彼の心に湧いた「不快な熱」は、理性で抑圧するのではなく、その「不快さ」を注意深く観察することに使われた。彼は、人の心とは、論理では制御できない、不快なものかもしれないという新たな仮説を立てる。

そして、一つの結論に至る。シミュレーションは完全にやめる。次からは、リスナーからの予期せぬ入力コメントに対し、自分が「自然に反応した」時に生じる現象だけを観察しよう。

彼の探求は、理論から実践へ。完璧な論理の構築から、不完全な反応の観察へと、方向転換した。

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窓《ウィンドウ》を照らす配信者 ゆっくりアレル @ARERU-yukkuri

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