ふたば日和
望月朋夜
第1話「はじまりは、ねぎ畑の朝」
朝の空気は、少しだけひんやりしていて、畑の土がしっとりと湿っていた。
千葉県松戸市――東京のすぐ隣なのに、ふたばの家のまわりは驚くほどのどかだ。
遠くの道路を走るトラックの音と、近くで鳴くヒバリの声。
それが一日のはじまりを知らせる、ふたばの大好きな音。
「おはよう、ねぎさんたち。今日も元気?」
しゃがみこんだ野菊ふたばは、まだ小さなねぎの葉をそっと指で撫でた。
早朝の光が髪のリボンを透かして、淡い若草色を浮かべている。
土の匂い。露の冷たさ。微かに漂う青ねぎの香り。
それは、彼女が生まれてからずっと慣れ親しんできた“家の匂い”だった。
「ふたば、そんなに話しかけてもねぎは返事しないぞ」
畑の奥から、腰の曲がった祖父が笑いながら近づいてきた。
古びた麦わら帽子に、泥でくたびれた軍手。
けれど、その目は若い農家顔負けにキラリと光っている。
「返事はしないけど、気持ちは伝わるんだよ、おじいちゃん。ねぎって、ちゃんと見てるもん」
「ほう。そりゃ頼もしいことだ。じゃあ今日は、ふたばの“おまじない水”を頼むか」
「了解!」
ふたばはジョウロを手に取り、軽やかに畝の間を歩き始めた。
足もとを黒猫のみつばがついてくる。
長靴の音に合わせて、しっぽをぴょこんぴょこんと揺らして。
「みつば〜、あんたも一緒にお給仕してるつもりでしょ」
「にゃー」
「お水はね、ねぎさんのごはんなの。あげすぎるとお腹壊しちゃうんだからね?」
そんな会話をしているうちに、祖母が家のほうから顔を出した。
手ぬぐいを首にかけ、湯気の立つ鍋を抱えている。
「ふたばー! お味噌汁冷めちゃうよー!」
「はーい! 今行くー!」
ふたばは手をパンパンと叩いて泥を払い、祖父に向かって笑顔でぺこり。
その笑顔は、どこまでも明るくて、朝の太陽よりまぶしい。
台所に入ると、母の和葉がエプロン姿で味噌汁をかき回していた。
柔らかい茶髪を後ろで束ね、白いブラウスの袖をまくった姿は、どこか品がある。
ロリィタ好きな娘・ふたばがこの母を尊敬してやまないのも、わかる気がする。
「おはよう、お母さん。今日の味噌汁、ねぎ入り?」
「もちろん。朝採れのやつよ。ふたばが育てたねぎ、甘くておいしいんだから」
「わーい、やった!」
ふたばはお椀を受け取り、家族の席についた。
祖父母、父、母、そして彼女。
そしてテーブルの下では、みつばがちょこんと座っている。
ふたばの箸が動くたび、黒猫の耳がぴくぴくと動く。
「ふたば、今日はお店?」と父が新聞をめくりながら聞いた。
「うん。午後から。新しい限定メニューが始まるから、ちょっと緊張してるけどね」
「新宿のあれだろ? “メゾン・ド・ラパン”。よく続いてるなあ。
お前、ほんとに頑張り屋だ」
「へへ、ありがと。でも、まだまだだよ。目標は“お店のNo.1メイド”だから!」
その言葉に、祖母がふわっと笑った。
「ふたばは昔から人を喜ばせるのが上手だからね。きっとなれるよ」
「うん! がんばる!」
ふたばはごはんをかきこんで、時計を見た。
もうすぐ電車の時間だ。
支度を終えて家を出ると、空はすっかり明るくなっていた。
ねぎ畑の間を通り抜ける風が心地いい。
ふたばはスカートの裾を押さえながら、ふと足を止める。
「ねぎさんたち、いってきます。
今日もたくさん笑ってこようね」
みつばが足もとで「にゃー」と鳴いた。
ふたばは笑いながら、黒猫の頭を撫でる。
「お留守番お願いね。帰ったら、ちゅーるあげるから♪」
それから駅までの小道を歩く。
遠くに見える常磐線の線路、風に揺れる洗濯物、
すれ違うご近所さんの「いってらっしゃい」。
そのどれもが、ふたばの日常の一部だった。
電車の中では、学生服の上に薄いピンクのカーディガン。
膝の上には、原宿で買ったお気に入りのメイドカフェノート。
お客さんの名前や、笑ってくれた瞬間のことを、毎日こっそり書き留めている。
「今日こそ、ミスしないようにがんばらなきゃ。
“いらっしゃいませ、ご主人さま♡”――ちゃんと言えるかなぁ」
松戸から新宿までは少し遠いけれど、
その道のりは、彼女にとって宝石みたいにキラキラしていた。
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