【短編小説】星の下の約束 ~死の宣告から始まる再生~(約26,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章 絶望の渦中 ~宣告と破壊の序曲~

 彼の名前は城戸俊輔。

 三十八歳。

 職業は派遣社員。


 月給にして手取り十六万円前後。貯金は六十三万円と、親が遺した不動産と現金。特に目立つ才能もなく、これといった人間関係も持たない。社会的には徹底的に透明な男だった。


 俊輔が住んでいるのは、東京郊外の古いアパートである。


 六畳一間の部屋には、ベッド、机、冷蔵庫、テレビがあるだけだ。壁は薄く、隣人の生活音が筒抜けだが、俊輔は気に留めない。そもそも隣人との関係を持ったことがない。誰かと言葉を交わすことが面倒だったからではなく、そもそも接点を作ろうとする気力が欠けていたのだ。


 派遣社員としての仕事は、主に倉庫での物品整理だった。


 朝六時半に目覚まし時計で起床し、簡単な朝食を取り、薄汚れたユニフォームに着替えて、同じ人間が何百人も働く大型倉庫へ向かう。そこで延々と段ボール箱を並べたり、バーコードをスキャンしたり、伝票を確認したりする。給料は安いが、人間関係は最小限だ。派遣社員は元々、使い捨ての労働力として位置づけられており、誰も俊輔に期待しない。


 その日々の繰り返しが、俊輔の人生全体を成していた。


 俊輔が三十代後半に至るまで、特に人生に疑問を感じたことはない。それは疑問を感じるほどの熱意がなかったからだ。親が健在の頃は、月一度の電話で母親が「仕事はしているか」と聞き、俊輔が「しているよ」と答えれば、それで事足りた。父親は俊輔を見つめるまなざしがいつも曇っていたが、それ以上は何も言わなかった。


 両親が相次いで亡くなったのは、俊輔が三十五歳の時だ。


 父親は心筋梗塞で、母親は脳卒中で、どちらも病院での入院期間は短かった。入院中も俊輔は仕事を休まなかった。何を言ったらいいのかわからなかったし、看病することの意味も理解できなかった。葬式では親戚が集まったが、誰も俊輔に話しかけなかった。そして彼はそれが当然だと思った。


 遺産は思ったより多かった。親が若い頃に購入した不動産は、立地が良く、賃貸に出すことで毎月十万円程度の家賃収入をもたらした。預金も合わせると、およそ三千万円が俊輔の手に渡った。税理士が手続きを進めてくれて、六ヶ月後には確実な収入源が確保されていた。


 その時点で、俊輔は派遣の仕事を辞めることもできた。誰もそれを止めなかっただろう。


 だが彼は仕事を続けた。


 理由を問われれば、「習慣だから」と答えただろう。実際のところ、仕事をしていなくなった時間は、もっと虚無的で、耐え難いものだろうという漠然とした恐怖があった。仕事をしている時間だけが、何かに追われている錯覚を与えてくれたのだ。


 三十八歳の秋、俊輔は定期検診を受けた。それまで人間ドックなど受けたことがなかったが、親が遺した遺言の中に「定期的に検査を受けなさい」という指示が含まれていたのだ。親孝行というほどの意思もなかったが、何もすることがなかったので、特に考えることもなく指定されていた医者を訪ねた。


 医者は五十代後半の男性で、眼鏡をかけ、机の上には家族の写真が飾られていた。その家族の中には、きっと医者を慕う妻や子供がいるのだろう。医者は俊輔の検査結果を見て、眉をひそめた。


「異常がありますね」


 医者の言葉は、俊輔の人生全体に対する最初の明確な判決だった。


 すい臓がんの初期段階。


 腫瘍マーカーは高い値を示していた。CTスキャンで確認された腫瘍は、まだ他の臓器に転移していないが、この速度で増殖していくと、二年から三年で致命的な段階に至る可能性が高い。化学療法や放射線治療の効果は限定的で、根治的な手術は不可能に近い。医者の声は感情的ではなく、事実を淡々と述べるだけだったが、その言葉の重さは俊輔の全身を通り抜けた。


「余命ですか」


 俊輔が聞いた。医者は少し間を置いた。


「慎重に言えば、二年から五年。ただし個人差があります。人によっては進行が早く、一年ということもあります。反対に、五年以上生きられる例もあります。確実なことは申し上げられません」


 医者が丁寧に説明してくれたのは、おそらく医者としての責務だったのだろう。だが俊輔の耳には、「」という一点の情報だけが入ってきた。


 その後、治療法についての説明があった。化学療法。放射線。臨床試験に参加すること。すべての選択肢が、生存期間を若干延ばす可能性を提示するだけで、。医者はそれらを淡々と提示し、最終的な決定は患者の意思に任せるという。


 診察室を出たとき、俊輔は何か変わったのを感じた。


 それはだった。


 人生の終わりが数字で示された。三年か五年か。確実ではないが、もはや先は見えている。その時点で、それ以降のことを考える必要がない。ローン、昇進、結婚、子育て、老後資金。そのすべてが、俊輔にとって


 帰宅したとき、俊輔は、そのことを誰にも告げなかった。医者に「家族に伝えるべきか」と聞いても、医者は「それは患者様の判断です」としか答えなかった。


 俊輔に伝える家族はいなかった。親戚の誰もが、俊輔が死ぬことで特に困るものはないだろう。不動産と預金は、法定相続人である遠い親戚のものになるだろう。誰かが泣くようなことはない。


 その夜、俊輔は初めて、自分の人生について真摯に考えた。


 数年しかない人生の中で、何をすべきか。


 何をしたいのか。


 その問いに対する答えが、俊輔の心の中にに、彼は気づいた。


 三十八年間、やりたいことを後回しにしていたわけではない。


 人生の終わりが見えたことで、俊輔の中の何かが、確かに変わった。


 それはだった。


 この社会は、生きている人間に対して無数の期待と責任を課す。


 働くこと。

 納税すること。

 社会的秩序を守ること。


 それらはすべて、「あなたはこれから何十年も生きるのだから」という前提の上に成り立っている。だが俊輔にはその前提がない。やるべきことはもう決まっている。ただ死ぬまで時間を消費するだけだ。


 その時点で、俊輔はになった。


 しかし、診断直後の日々は、さすがに無気力に満ちていた。


 俊輔はベッドに横たわり、ただ天井を見つめる時間が長くなった。食事は抜きがちで、体重が減り始めた。テレビの音が遠くに聞こえ、隣人の喧騒も気にならなくなった。死が近づいているという事実が、すべてを無意味に染め上げていた。


 派遣の仕事も、すぐに辞めた。


 朝起きて倉庫に行く理由が、なくなったのだ。家賃収入で生き延びられるなら、それでいい。日中は散歩もせず、部屋に閉じこもり、ぼんやりと窓から外を眺めるだけ。時折、胸の奥に鈍い痛みが走るが、それさえも無視した。生きる意欲が、蒸発していた。


 そんな無気力な日々が二週間続いた後、俊輔の内面に変化が訪れた。


 破壊的な衝動が、次々と噴き出してきたのだ。


 飲食店での料理の提供が遅れたとき、俊輔は店長に罵声を浴びせた。俊輔はカウンター越しに店長を睨みつけ、「こんな店なんかやめちまえ! 客を馬鹿にするな!」と叫んだ。店長は驚いて謝罪したが、俊輔はさらに声を荒げ、「お前の顔なんか見たくない!」と店を飛び出した。その後、俊輔はアパートに戻り、ベッドに倒れ込んだ。心臓が激しく鼓動し、後悔が襲ってきた。なぜそんなことをしたのか。だが、すぐに怒りが再燃した。死ぬ身の自分が、なぜ我慢しなければならないのか。


 別の日、信号を無視した車の運転手に、俊輔は石を投げた。


 俊輔は路傍の小石を拾い上げ、力一杯投げつけた。石は車のボンネットに当たり、鈍い音を立てた。運転手は車を停め、怒鳴りながら降りてきた。「何しやがる!」俊輔は無表情で睨み返し、「うるせえよ。信号守れよ。お前みたいな奴が事故起こすんだよ」と吐き捨てた。運転手は俊輔に殴りかかろうとしたが、周囲の視線に気づき、すごすごと車に戻った。俊輔もその場を去ったが、胸に残ったのは達成感ではなく、空虚さだった。石を投げても、世界は変わらない。


 ネット上で誰かを貶す投稿を見ると、その人の個人情報を掘り起こし、晒す側に回った。あるフォーラムで、匿名ユーザーが弱者を嘲笑う投稿をしていた。俊輔は徹夜でそのユーザーの痕跡を追った。SNSのプロフィール、過去のコメント、IPアドレスの推測。ついに本名と住所を突き止め、匿名掲示板に晒した。「こいつが本当の顔だ。罰を受けろ」。翌日、晒されたユーザーのアカウントが消え、フォーラムに混乱が広がった。俊輔は画面を眺め、満足したはずだったが、すぐに罪悪感が湧いた。晒された相手が自殺したらどうする?


 そんな行動が続いたある夜、俊輔は警察から警告を受けた。ネットでの個人情報晒しが、被害者からの通報で発覚したのだ。警察官はアパートを訪れ、「次に同じことをしたら、逮捕する」と厳しく言った。俊輔は頭を下げ、謝罪した。だが、心の中では反発が渦巻いた。なぜ自分だけが罰を受ける? 死ぬ身に、法など関係ない。警察が去った後、俊輔は鏡に映る自分の顔を見て、吐き気がした。やせ細った、血走った目。破壊が、自分自身を蝕んでいることに気づいた。


 もっとも、俊輔の行動が社会的に深刻な結果をもたらすことはなかった。彼は目立たない存在であり、その怒りは散発的で、組織的な悪意ではなかった。警察に捕まることもなく、大きな事件を起こすこともなかった。だが、その期間、俊輔の内面には確実に何か破壊的なものが育っていた。


 そして、その状態が二ヶ月続いた時点で、俊輔はあることに気づいた。


 自分は


 石を投げても、罵声を浴びせても、個人情報を晒しても、何も変わらない。世界は相変わらず回転し続け、自分はただ傍観しているだけだ。


 その虚しさが、新たな空白をもたらした。


 医者の診察から四ヶ月後の冬、俊輔はペットショップの前を通りかかった。理由はない。ただ夜間に仕事がなくなった時間を潰すために、街をさまよっていただけだ。


 そのペットショップの名前は「スターダスト」といい、二十四時間営業の小型チェーン店だった。窓には子犬や子猫が展示されており、それらの動物たちは透明のケースの中で、大人しく眠っていた。俊輔は窓を通して、その動物たちを眺めた。


 それらの生き物もまた、死ぬのだろう。人間ほど長くは生きない。だが少なくとも、それらは。先がないことに怒ったり、虚しさを感じたりしない。


 ただ、そこにある。


 その無意識の存在の仕方が、俊輔には羨ましかった。


 店内に入ることにした。


 ペットショップの内部は、整然と清潔だった。照明は明るく、BGMには子供向けのポップミュージックが流れていた。ケースごとに動物が分類され、それぞれに説明書きが貼られていた。価格も明記されていた。これらはすべて商品であり、売買の対象だ。


 ペットショップの店員はカウンターの後ろにいた。女性だった。俊輔の見た感じでは二十代前半だろう。茶髪にメイクが濃く、どこにでもいるような若い女性だった。だが何か同時に、つかみどころのない印象を受けた。


 その女性は、俊輔に気づくと、笑顔で挨拶した。


「いらっしゃいませ」


 俊輔は返事をしなかった。代わりに、ケースを見回った。犬、猫、ウサギ、ハムスター。どれも小さく、かわいらしかった。だが値段を見ると、子犬で五十万円、子猫で三十万円だ。これらは愛玩動物というよりも、金銭的価値を持つ商品だった。


「何かお探しですか」


 女性店員が再び話しかけてきた。


「いいや」


 俊輔は最小限の返答をした。


 だがその女性は、俊輔のそっけない態度に怯むことなく、近づいてきた。そして、何か違う目つきで、俊輔を見つめた。


ですね」


 女性の言葉は、俊輔の予期していないものだった。


「何が」


「顔がそんな感じで」


 女性は、台詞の内容に反してしゃくに触る物の言い方をしなかった。むしろ、困った人を見守る親切な目つきで、俊輔を見ていた。その視線の向け方が、俊輔を戸惑わせた。


「別に。ただペットを見に来ただけだ」


「ペット、飼いたいんですか」


「いや」


 俊輔が答えると、女性は少し考えた。


「そっか。でも何か


「何を」


「何でもいいから、、そういう感じ」


 女性の言葉は、俊輔の胸に異奇な違和感を与えた。この若い女性は、何の根拠もなく、俊輔の内面を言い当てている。それは多くの人間が持つ不気味さではなく、むしろ純粋さから生じる直感のようなものだった。この娘は……何かおかしい。


「何か、感じるのか?」


 俊輔が聞くと、女性は首をかしげた。


「顔に。目に。何か探してる感じが。何かを失った感じが」


 女性の言葉が、俊輔の中に何かを揺さぶった。


、奥に動物がいます。展示していない。虐待されていた」


 女性が言った。「その人」? いったい誰の事だ?


「見たいですか」


 俊輔は返事をしなかった。だが女性はそれを肯定と受け取り、「少し待ってください」と言って、店の奥に消えた。


 数分後、女性は一匹の犬を抱えて戻ってきた。


 それは褐色のミックス犬で、体は非常に痩せていた。毛並みは劣悪で、何ヶ月も手入れされていなかった形跡があった。目は怯えており、女性の腕の中で、びくびくと震えていた。体には古い傷跡がいくつも残り、肋骨が浮き出ていた。虐待の詳細は不明だが、鞭や棒で打たれた痕が明らかだった。


「この子、保護しました。元の飼い主が虐待していたんです。警察に引き取られて、うちで一時預かりしてます」


 女性が説明した。


「どうしてそんなことを教えてくれる?」


の顔を見て。この子と同じ顔してました。絶望してる顔」


 そこでようやく俊輔はが俊輔自身を指していることに気がついた。

 普通の言葉の使い方ではない。おそらくこ娘には軽度な知的障害があるのだろう。


 しかし女性の言葉が、俊輔の中に奇妙な既視感を呼び起こした。この若い女性は、俊輔と同じように、虐待という絶望的な状況を知っているのだろうか。それとも、単に直感的に感じ取っているのだろうか。


「その人、何か考えてますか」


 女性が聞いた。


「いや、別に」


 俊輔が答えると、女性は犬をさらに俊輔に近づけた。


「でもこの子と同じだと思う。


 俊輔は、女性から犬を受け取った。犬の体温が手に伝わり、その呼吸が自分の腕の上でかすかに動いた。この生き物も死ぬのだ。この虐待から救われても、やがて老化し、病気になり、死ぬ。なぜ生かす意味があるのか。


 だが、その疑問に答えることは難しかった。


「名前、あります」


 女性が言った。


「この子、昨日保護した。虐待された。何日も水も食べ物も与えられていなかった。警察が連れてきました。もう殺処分の対象になるはずだった。だけど、うちの店長が保護することにしました」


「なぜ」


「店長は昔、自分も虐待された猫を救った経験がある。人手がないけど、放っておけなかった。うち、バイトは私一人。だからこの子、私が世話することになった」


 女性が言ったことの現実味が、俊輔の中に沁み込んだ。この若い女性は、毎日この虐待された犬の世話をしている。それは義務ではなく、選択だ。なぜなら、彼女はこの犬を生かすことを決めたのだから。


「その人も」


 女性が言った。


「何か理由が欲しいんじゃないですか。生きる。その人の顔見ると、そう思う」


 俊輔は返事をしなかった。だが、その時点で、彼の中に何か細い、それでも確実な繋がりが生じ始めていた。



 その夜、俊輔は帰宅してから、医者からもらった余命告知の紙を取り出した。そこには確かに、「すい臓がん、初期段階。予後は不良。予想生存期間、二年から五年」と書かれていた。


 それを読みながら、俊輔は考えた。


 この紙が本当だとしても、もしかして。俊輔は医学についての知識をほぼ持たない。医者の言葉は絶対的だと思っていたが、誤診もあるかもしれない。進行が遅い例もあるかもしれない。


 あるいは、この数年の間に、新しい治療法が開発されるかもしれない。


 そういった確率的な可能性を、俊輔は初めて真摯に考えた。


 ペットショップの女性の言葉が、頭の中で繰り返された。


「その人の顔見ると、何か探してる感じが」


 その感覚の正体は、俊輔にもようやく理解できた気がした。


 それは「生きる理由」だった。


 数年の人生の中で、自分がなぜ生きているのか、その理由を見つけたいという衝動。ペットショップの女性はそれを見抜いていた。そして、彼女自身も、その理由を持っていた。虐待された犬を生かすこと。その単純で、純粋な動機が、彼女を支えている。


 俊輔は決めた。


 明日も、ペットショップに行こう。


 その若い女性に、もっと話しかけよう。その犬について、もっと知ろう。


 そして、もしかして。自分もまた、何かのために生きることができるかもしれない。


 その可能性だけが、俊輔を前へ進めた。


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