第23話 春の市、新しい春の風
――菜々
春の朝。
通りの桜並木が一斉に花を開いて、
八百屋の軒先まで花びらが舞い込んでくる。
今日は商店街の春祭り――「春の市」。
「よし! 今年こそ売上一位だよ!」
私は腕まくりをして気合いを入れる。
隣の魚屋から、氷のぶつかる音がした。
汐が真剣な顔で桜鯛を並べている。
「おはよう、菜々」
「おはよう! 共闘だよ!汐!」
「朝から元気だね」
「春だから!」
「……理由になってない」
私は屋台の前に春野菜を並べる。
菜の花、ふきのとう、そら豆。
全部、ピカピカに光ってる。
「見て、この菜の花、最高でしょ?」
「うん。蕾が開く前は甘くて美味しいやつ」
「おっ、勉強してるね魚屋さん!」
「毎日、菜々のうんちく聞かされてるから」
「うんちく言ってるつもりないんだけど!」
⸻
準備が整うと、商店街の通りはあっという間に賑わいだした。
子どもが走り回り、屋台からは焼きそばの匂い。
マイクを持った青年会のおじさんが「春の市開幕〜!」と叫ぶ。
私たちも、負けじと声を張り上げた。
「八百屋特製! 春野菜の天ぷら〜! 揚げたてだよ!」
「魚屋名物! 桜鯛の昆布締め、今が旬です〜!」
通りすがる人たちが「美味しそう!」と足を止める。
気づけば二人の屋台の前だけちょっと行列。
「汐、揚げるから鯛切って!」
「了解。菜々、火強すぎ」
「大丈夫大丈夫! 経験値が――あっ!」
パチン、と油がはねた。
私があわてて引くと、汐がタオルで受け止める。
「ほら、言った」
「……はい、すみません」
「手、見せて」
「ちょっとだけだってば」
「冷やす」
汐が屋台の氷をタオルに包んで、
私の手をそっと握った。
冷たいのに、不思議とあたたかい。
「痛くない?」
「う、うん……もう平気」
「ほんと?」
「うん。ありがと、汐」
「よかった。――でも、次焦がしたら減給」
「給料制じゃないよ!」
⸻
昼過ぎには、商店街全体が人でいっぱいになっていた。
風にのって桜の香りと屋台の煙がまざる。
「汐、注文入った! 昆布締め三つ!」
「了解。菜々、天ぷら追加五人前!」
「りょーかいっ!」
ふたりの掛け声がすっかり板について、
通りの人たちから「息ぴったりねぇ」と笑われる。
「魚屋と八百屋、夫婦みたいだねぇ」
おばちゃんの一言で、私は手を止めた。
「えっ!? え、そ、そんなっ!」
汐も一瞬包丁を止める。
「ほら、顔真っ赤」
「汐もでしょ!」
「……たぶん」
「だからその“たぶん”やめて!」
笑いながらも、胸がドキドキしている。
まさかこんな形で言われるとは。
でも、悪い気はしなかった。
⸻
夕方。
祭りが落ち着いて、人波が引いていく。
屋台の片づけを終えたあと、
ふたりで桜並木を歩いた。
「今日、頑張ったね」
「うん。疲れたけど楽しかった」
「魚屋と八百屋、最強タッグだったね」
「うん。……菜々、顔に天ぷら粉ついてる」
「えっ、どこ!?」
「ここ」
汐が指でそっと拭ってくれる。
指先が頬に触れた瞬間、
胸の鼓動が跳ねた。
「ありがと」
「どういたしまして」
「……汐も」
「なに」
「ほら、口のとこに粉」
「どこ?」
「ここ」
私は指先で汐の唇の端を軽くなぞった。
その瞬間、風が止まる。
桜の花びらがふたりの間をひとひら落ちて、
静かに地面に舞い降りた。
⸻
近い。
顔も、息も、視線も。
汐の瞳の中に、
私の顔が小さく映っている。
「……菜々」
「ん」
「今日、楽しかった」
「わたしも」
「それと……」
言葉の続きが聞こえる前に、
汐がそっと顔を寄せた。
息が触れて、
唇が、ほんの一瞬、やわらかく重なった。
桜の香りと、苺大福の甘い匂いが混ざって、
世界が一瞬だけ、音をなくした。
⸻
離れたあと、
どちらからともなく笑った。
「……春、だね」
「うん」
「今の、春の味した」
「八百屋っぽい感想」
「魚屋もでしょ」
「……たぶん」
「もう、ほんとにそれ禁止」
笑い声が、桜並木の下で重なる。
夕陽が二人の影をひとつに繋げていた。
⸻
そのころ、屋台の裏では――
トロがちゃっかり残りの鯛の切れ端をくわえて逃げ出していた。
風に花びらが舞い、
猫のしっぽがそのあとを追う
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