第3話 放課後の音、朝の匂い
大人になる少し前
――菜々
朝の通りは、いつも私が先に声を出す。
だって、うちの八百屋「菜の音」は陽当たりがいいから、開店がちょっと早いんだもん。
「おはようございます〜! 今日は新じゃがと茄子が最高です〜!」
そう叫ぶと、必ず返ってくる声がある。
「うるさい。魚がびっくりしてんだろ」
振り向けば、隣の魚屋「しお風」の前で、潮汐(しお)が氷をかき混ぜてる。
前掛けに霜がついて、髪がちょっと濡れてて、それがなんか、
ちょっと、かっこいい。
……って思った瞬間にムカついてくるのが、毎度のこと。
「びっくりしないよ、死んでるんだし!」
「おまえなぁ、言い方考えろ」
「事実だもん」
「魚への敬意が足りねえ」
そう言って、潮は魚を両手で持ち上げる。
光を浴びて銀色がきらきらする。
……その腕の筋まで、きらきらしてる気がして、私は慌てて目を逸らした。
⸻
放課後。
私はマネージャーとして、体育館の隅でタオルを畳んでいた。
中学、高校とずっと同じバスケ部。潮はプレイヤー、私はマネージャー。
チームの中でいちばん頼られてるのが潮。
それが誇らしい反面、なんだかくすぐったい。
「菜々ー、氷ある?」
「あるよ、いつもの場所」
「助かる」
「まったく……店でも氷、学校でも氷、汐は氷の妖精かなんか?」
「魚冷やす妖精」
「バカにしてるでしょ」
「褒めてる」
この人、時々ほんとずるい。
冗談みたいな言葉を、まっすぐな目で言うから。
⸻
――汐
菜々の声が聞こえると、商店街が起きた気がする。
うるさい。でも、聞こえないと落ち着かない。
それが悔しい。
「今日もトマト赤いね!」
「おまえの顔ほどじゃない」
「はぁ!?」
「うるさい顔してる」
「意味わかんない! 朝から喧嘩売ってんの!?」
「挨拶だよ」
菜々は頬を膨らませる。
その顔が、子どものころと変わらなくて、思わず笑ってしまう。
⸻
放課後の体育館は、湿った木の匂いがする。
ボールの音が響くたび、菜々が外でノートをつけている姿が見える。
マネージャーなんて、よくやるよ。
きっと、私に付き合って入ったくせに。
練習後、菜々がタオルを渡してきた。
指先が触れた瞬間、少しだけ電気が走る。
気のせいだと思いたい。
「お疲れさま、今日のシュート成功率八割だって」
「監視してんのか」
「データ管理だよ」
「……ほんと、几帳面だな」
「だって、あんた勝ちたいでしょ」
“あんた”って呼び方が、昔から変わらない。
他の誰にもそう呼ばれないのが、少しうれしい。
⸻
――菜々
バスケ部の女子たちの間では、潮が人気だ。
それはもう、モテモテ。
男女問わず告白される。
断る姿までかっこいい。
「えっと、ごめん。練習で忙しいから」
って笑って、全部さらっと流す。
そのたびに、胸がざらざらする。
私が勝手にざらざらしてるだけなんだけど。
「菜々ちゃんって、汐先輩と仲良いよね〜?」
「う、うん、まぁ幼なじみだから」
「いいなぁ〜、あんな人彼氏だったら最高」
「……彼氏じゃないし」
即答しすぎた。
笑いながらごまかすけど、心のどこかが痛かった。
⸻
――汐
部活が終わった後、店を手伝いに戻る。
魚を捌くとき、包丁の音に混じって、また菜々の声が聞こえてくる。
「今日はカブが甘いですよー!」
「おまえ、声のボリューム下げろ」
「じゃあ、あんたの魚の匂い下げて!」
「魚に謝れ!」
「じゃあ野菜に謝れ!」
口喧嘩のテンポが小気味いい。
だけど内心、少しだけ安堵してる。
放課後、あいつが他のやつと話してたのを見て、胸の奥がもやっとした。
あの男子、なんだよ、笑いすぎ。
でもそんなこと、言えない。
氷を触る手に力が入る。
魚がきらりと光って、私をからかうみたいに見えた。
⸻
――菜々
夕方。閉店の支度をしていたら、潮がこっちを覗いてきた。
「おい、明日練習試合、弁当頼む」
「また? この前も作ったじゃん」
「うまかったから」
「……へぇ」
「卵焼き、もうちょい甘くして」
「注文細かっ!」
「マネージャーの特権だろ?」
「誰がそんな特権決めたの!」
「私」
「殴るよ!」
「やれるもんなら」
笑いながら、氷の箱を担いで帰っていく後ろ姿を見つめる。
夕陽に伸びた影が、私の足元まで届いている。
(ほんと、ずるい人)
口では喧嘩ばかりなのに、
ふとした瞬間に、心を撫でるようなことを言う。
⸻
――汐
夜。
店の片づけを終えて、風にあたる。
壁の向こうから、菜々の鼻歌が聞こえる。
それを聞きながら、私は口の中で呟いた。
「……好きとか、言える性格じゃねぇしな」
カモメの声が遠くで鳴いた。
潮の匂いが少しだけ甘くなった気がした。
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