キャンバスの幻像:ひび割れた彼女と、甘い秘密のアガペー

Tom Eny

キャンバスの幻像:ひび割れた彼女と、甘い秘密のアガペー

キャンバスの幻像:ひび割れた彼女と、甘い秘密のアガペー


運命のひび割れ


その日、健太の心臓は、バイトで稼いだ血の滲むような金で手に入れたタブレットの鮮やかな輝きのように、高鳴っていた。美術部へ向かう廊下で、遠くからミナミが走ってくるのが見えたからだ。光を浴びて輝く長い髪、少しはにかんだような優しい微笑み。彼女は急いでいたのだろう、足早に駆け寄ってくる。すれ違う瞬間、不意に肩がぶつかった。


「あっ……」


声が漏れる。大切なタブレットが、するりと指先から滑り落ち、コンクリートの床に叩きつけられた。ミナミが何かあったことに気づき、心配そうに振り返った。健太は必死に笑顔を作った。


「う、うん。大丈夫。平気だから。僕がぼーっとしてたから、気にしないで」


ミナミが去った後、健太は手に持ったタブレットに目を落とした。息を呑む。画面は、まるで蜘蛛の巣のように無数のひびが走り、中心から放射状に広がる傷は、彼の心臓に鋭い痛みを走らせた。それは、貧しい寮生活から抜け出し、夢を具体化するための、唯一無二のパスポートだった。買い替える余裕も、修理するお金もない。


友人に呆れられながらも、健太はひび割れたタブレットを使い続けた。ひび割れの隙間を避け、時にはそれをテクスチャの一部として不器用に取り込みながら、以前と変わらぬ愛情を込めて絵を描き続けた。そのひたむきな愛着が、デジタルなはずの相棒の奥底に、静かに「恩返し」の力を蓄えさせていたのだろう。


奇跡の始まり:モノの傷


数日後、美術部の教室。今日の課題はリンゴのデッサン。昨日から碌なものを食べていない。お腹が「グゥ~」と鳴る。デッサンをしながら、ふと「ああ、このリンゴ、食べられたらいいのに」と心の底から切望した。この絵が、貧困から脱却するための力になってくれたら――。


その瞬間、タブレットの画面に描かれたリンゴが、心臓が脈打つように、かすかに淡い光を放った。ひび割れた部分が、リンゴの皮のひび割れと重なり合い、光がひびの隙間から現実の空気中に滲み出る。そして、乾いた音を立てて、空っぽだったはずの机の上に、真っ赤なリンゴが突然として出現した。


甘酸っぱい、本物のリンゴの香りが、埃っぽい教室にふわりと漂う。健太は恐る恐る触れると、ひんやりとした硬質な感触が確かにあった。


しかし、喜びと同時に、違和感が目を引く。リンゴの側面には、健太のタブレットに走る最も大きなひび割れと寸分違わぬ、深くはないものの、はっきりとした筋が、皮を抉るように刻まれていたのだ。それは、タブレットの傷がそのまま転写されたようで、リンゴ自身も、健太の相棒と同じ痛みを背負っているかのようだった。


完璧な魔法ではない。大切に使い続けたタブレットの「代償」が、現実の被造物にまで現れる。それでも健太は、傷ついたリンゴを抱え、空っぽの胃袋に運んだ。それは、どんな高級な食事よりも温かく、奇跡の味がした。


寮での秘密の「脆い幸福」:存在の傷


さらに数日後。今日のデッサンモデルはミナミ。健太は、ひび割れたタブレットに、ミナミの姿を丁寧に描いていく。輪郭、髪の揺らぎ、そして優しい微笑み。タブレットのひび割れが、ちょうど彼女の左頬を横切るように走っていることに気づく。健太は、あえてそのひびを、彼女のデッサンの一部として、わずかな陰影のように取り込んで描いた。


デッサンを終え、学校の寮へと戻る。カビや埃の匂いが染み付いた、壁の薄い自室のドアを開ける。隣の部屋からは、友達の話し声や、ギターの音が筒抜けになる。プライベートの欠片もないその部屋の隅、ベッドの足元に近い場所に、ミナミが座っていた。美術部でデッサンしていた時と、全く同じポーズで、膝の上にデッサン帳を広げている。


「おかえり」


夢のように現実で、ミナミは優しく微笑んだ。憧れの彼女が、自分の描いた絵から現れたのだ。


しかし、健太の視線が、彼女の顔の左頬に引き寄せられた。そこには、タブレットのひび割れと全く同じ位置、同じ形で、細く、しかし確かに、薄紅色の筋が走っていたのだ。まるで皮膚の下に微かな血管が浮き出ているかのようにも見える。完璧なはずのミナミの顔に、タブレットの「傷」が、存在の代償として転写されていた。


ミナミは鏡に映る自分の顔を、どこか憂いを含んだ表情でしきりに確認していた。自分が絵から現れた存在だとは知る由もないミナミは、突然現れたその「傷」の理由が分からず、不安に思っているのだ。そして、小さなポシェットから肌色の絆創膏を取り出し、その薄紅色の筋の上に丁寧に貼った。絆創膏で隠された部分を、ミナミはもう一度、鏡越しに心配そうに確認していた。


ぎこちない沈黙の中、健太のお腹が「グゥ~」と鳴った。


「あの……ご飯にする? それとも……お風呂にする?」


そのあまりにも日常的な問いかけに、健太はフリーズした。憧れのミナミが、自分の部屋に突然現れたという非現実的な状況。そして、彼女から発せられた言葉は、まるで新婚生活の定番のような選択肢。二人の間には、戸惑いと緊張、そして異常なほど温かい、奇妙な「甘い秘密」の日々が始まった。


忍び寄る影と現実の痛み:記憶と心の傷


ミナミが健太の部屋に現れて数日が過ぎた。二人の間には、緊張と、それに勝る濃密な幸福感が流れていた。食卓に並ぶ少し焦げ付いた目玉焼きも、不器用ながら作ってくれるお弁当も、すべてが奇跡の味だった。料理中、不器用なミナミを後ろから抱きしめ、優しく声をかける。そんな親密な触れ合いに、健太は満たされていた。


しかし、この甘い日々は、常に隣の部屋の影に怯えていた。リビングのない狭い部屋で、二人はひそひそ声で会話を交わし、足音を立てないよう忍び歩く。夜中に水を飲む音さえも隣に聞こえていないか、健太は常に耳を澄ませた。ノックの音が聞こえれば、ミナミは瞬時にベッドの下やクローゼットの奥へと隠れる。


そして、学校での日々。本物のミナミとすれ違うたび、健太の胸の締め付けは強くなった。なぜなら、本物のミナミもまた、左の頬に、見慣れた肌色の小さな絆創膏を貼っていたからだ。絆創膏の位置も、隠された「傷」の形も、まるで自分のタブレットのひび割れを写し取ったかのようにそっくりなのだ。


そして、気がかりなのは、本物のミナミの絆創膏の下の「傷」が、少しずつ、しかし確実に、濃くなっているように見えることだった。


健太は、ある恐ろしい可能性に気づき始めていた。自分の部屋にいる**「描かれたミナミ」との甘い共同生活が、現実の本物のミナミ**に影響を与えているのではないか。この奇跡は、本物のミナミの身を削って成り立っているのではないか。喜びと引き換えに、愛する人が苦しむという、あまりにも残酷な現実。


その夜、ミナミを寝かしつけた後、健太は小さなソファに座り、膝を抱えた。その時、隣の壁の向こうから、気の置けない同級生の話し声が鮮明に聞こえてきた。


「なあ、ミナミちゃんさ、ちょっと前、急にほっぺに変な傷ができてたらしいよ。なんか、変な線っていうか、ひび割れみたいだったってさ」


その言葉は、健太の心臓に冷たい氷の矢を突き刺した。彼の秘密の代償が、周囲にも認識されていたのだ。


さらに、友人はふと何かを思い出したように、悪戯っぽい目で健太の壁を覗き込んだ。


「そういえばさ、おまえの部屋からも最近、女の子の声が聞こえてきた気がするんだけど、誰か連れ込んでるのか? 寮は女禁止だぞ」


健太の全身が硬直した。心臓が張り裂けそうに脈打つ。あれほど気を付けていたのに、隣にまで声が届いていた。あの生活は、愛と引き換えに、自分自身をも窮地に追い詰める、まさに綱渡りだったのだ。


究極の選択:アガペーの決断


健太の心は、激しい葛藤に引き裂かれた。目の前には、自分を慕い、かけがえのない安らぎを与えてくれる「描かれたミナミ」がいる。しかし、この夢を続ければ、本物のミナミの傷は、きっともっと深く、そして消えないものになってしまうだろう。愛する人を傷つける選択はできない。


眠りについた「描かれたミナミ」の寝顔と、ひび割れた画面のデッサンを、健太は長い沈黙の中、見比べる。


「ごめん……」


絞り出すような謝罪が喉の奥で漏れる。愛と痛みが入り混じった複雑な表情で、健太は震える指をゆっくりと、しかし迷いなく、画面の**「削除」のアイコン**へと伸ばした。指先が触れた瞬間、タブレットの画面が眩い光を放ち、ひび割れた部分から光の粒子が立ち上るように散っていった。そして、光が収まった後には、元のひび割れた黒い板が残された。


その瞬間、「描かれたミナミ」が座っていたベッドの隅が、まるで最初から誰もいなかったかのように、ひっそりと静まり返った。彼女の残り香も、温もりも、すべてが消え去り、ただ空虚だけが残った。しかし、床には、ミナミが付けていた石鹸の香りが微かに漂い、彼女が確かに存在したという、切ない余韻だけが残された。


健太は、胸の奥を抉られるような喪失感に膝から崩れ落ちそうになった。だが、その痛みこそが、愛する人のために夢を手放した、**自己犠牲的な愛(アガペー)**を選んだ証だと、自分に言い聞かせた。


残された痕跡と新たな誓い


翌朝、重い足取りで学校へ向かった健太は、廊下で本物のミナミとすれ違った時、目を凝らした。


本物のミナミの左頬に貼られていたはずの絆創膏が、消えていた。彼女の頬は、以前と変わらぬなめらかで、一点の傷もない美しい肌に戻っていたのだ。ミナミは、いつもと変わらぬ無邪気な笑顔で、健太に「おはよう!」と声をかけた。


安堵と、言いようのない寂しさが同時に押し寄せた。彼は、愛する人のために、夢のような生活を手放した。それは、辛い選択だったが、後悔はなかった。


しかし、数日後、美術部の活動でミナミがデッサンモデルを断った。


「あの……最近、肌の調子が悪くて……。この前も、頬に変な線ができちゃって……その記憶が残ってるみたいで……」


小さな声で言い訳するミナミの言葉を聞きながら、健太は息を呑んだ。傷は消えた。だが、その傷がミナミの記憶に残り、彼女の心に影を落としているという現実が、彼に重くのしかかった。物理的な損傷が消えても、心の傷と、そして周囲の認識の中には、あの奇跡の代償が確かに刻まれてしまっていたのだ。


健太は、重くのしかかる現実に打ちひしがれながらも、一つだけ決意を固めた。愛と引き換えに、愛する人を傷つけ、自分自身をも危険に晒すような奇跡は、二度と望まない。彼は、ひび割れたタブレットにではない、彼自身の感性と技術で、いつか傷つくことのない、真に美しいミナミの絵を描くことを、心に誓った。そして、その絵が、いつか彼女の心の傷までも癒せるように、と。


彼にとって、あの奇跡は、甘い夢であると同時に、深く重い十字架となった。しかし、彼は知っていた。このひび割れが、彼の絵に、そして彼自身の人生に、真の創造には代償が伴うという、新たな深みをもたらすだろうと。

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