37.エピローグ
婚約式からしばらくして。
ヴァレンシエール王国の第一王子婚約者となったシャルローヌは、アレクサンドルの黒いマントに包まれて、南の港町からさらに沖に面した小さな漁村へと向かっていた。同行するのは、ばあやとカイル、それにリオネル。そして先導するのは、青と橙の羽をきらめかせた小鳥――ビジュ。
「婚約者の初めての旅路が漁村とはな」
アレクサンドルが苦笑する。
「わたしが“いつかお礼に来る”って心に誓ったのだもの」
「そうだったな」
アレクサンドルの黒い外套の端が風に揺れる。彼の横顔には、どこか少年のような笑みがあった。
(アレックスの笑顔が日に日に自然になってる)
それが嬉しくて自分も笑顔になる。
潮風の匂いが懐かしい。嵐の夜、彼女が流れ着いた村。あのとき芽生えた“もう一度、生きたい”という想いが、今、この旅路に繋がっている。
◇
「シャルさん!? いや、シャルローヌ様!」
村に足を踏み入れた瞬間、村人たちはどよめいた。
「ほんとうに……王子殿下のご婚約者に!」
「やっぱり、ただ者じゃなかったんだ!」
「ありがたいことだ、村の誇りじゃ!」
子供たちはビジュを追いかけ、老人たちは涙ぐみ、漁師たちは網を放り出して駆け寄ってくる。
「村を魔獣から救ってくださった剣士様が……」
「木の棒一本で魔獣の背を駆け上がって――」
「ふむ。その場面を、もう少し詳しく」
アレクサンドルが妙に真剣な顔で前のめり。
「ちょっと、もうそれくらいにしてってば!」
シャルローヌが赤面して手を振る。
「シャルローヌ様、なんとお美しい……」
「彼女が美しいことは承知している。省いてよい」
真顔で返すアレクサンドル。
横でリオネルがぼそっと言う。
「ベタ惚れを隠さなくなってきたな」
カイルがにやりと笑う。
「嬉し泣きしちゃいますか?」
「おまえにだけは言われたくない」
リオネルが即座に切り返す。
◇
村長の家では、丁寧に保管されていた木箱が出された。
「これをお返しせねばと思っておったのです」
中にあったのは、血と泥にまみれていたあの日のドレス。
今は真っ白に洗われ、繕われていた。
「これ!」
シャルローヌの瞳が潤む。
「捨てられるものではなかった。姫様が生きておられる証であり、この村の誇りじゃ」
指先で布をなぞると、胸の奥が熱くなった。あの日の戦い、そして温かなスープの味が蘇る。
◇
夜。縁側に腰かけ、月を仰ぐふたり。膝の上には、繕われたドレスが広げられていた。
「俺はこの村に借りがあるな」
「え?」
「この村が、おまえを守ってくれた。だから今、こうしておまえを隣にできている」
シャルローヌは微笑む。
「うん。でも、もう大丈夫。これからはずっと一緒だから」
アレクサンドルの瞳がやわらかく揺れ、静かに彼女の手を取った。
◇
その夜、村はお祭りのような賑わいになった。
「王子殿下と聖女様を祝わんでどうする!」
漁師たちが大漁旗を掲げ、女たちは花で飾りを作る。
大鍋いっぱいの魚のスープ、焼き魚、野菜の煮込み。村人総出でご馳走が並び、アレクサンドルも思わず目を丸くした。
「これは……盛大だな」
「祝いの席に遠慮は無用ですぞ、殿下!」
村長が杯を差し出す。
その隣でリオネルがまた鼻をすすり、カイルが「また泣いてる」と冷やかす。
「うるさい! これは潮風が目に入っただけだ!」
「リオネル、潮風で両目真っ赤ってなかなかないですよ」
「黙れぇ!」
そのやりとりに、シャルローヌとばあやは笑い、アレクサンドルも肩を震わせていた。
そして、シャルローヌがカイルへ微笑む。
「カイルも来てくれて嬉しい。ほんとに、最初からずっとありがとう」
「い、いや、当然のことだし。そんなあらたまって言われるとなんだか」
カイルが照れて顔をかくその背後で、アレクサンドルがゆっくりと首だけ動かし――静かに“黒い視線”。
「お、お気になさらず! 殿下!」
カイルの声が半音上ずる。
リオネルが小声でつぶやいた。
「ご愁傷様」
◇
宴がひと段落したころ。シャルローヌは懐から赤い刺繍の護符を取り出した。
「村長。この護符のおかげで、王都まで生き延びられました。……ずっと大切にしていたんです」
村長は目を細め、やがて首を横に振る。
「いや、それは返さずともよい。命を繋いだ品は縁そのもの。それを持っておることが、またここに戻る証になるじゃろう」
シャルローヌは護符を胸に抱きしめた。
「……ありがとうございます」
アレクサンドルがそっと肩に手を置く。
「約束だ。必ずまた来よう」
波音と焚火のはぜる音が夜風に溶けていく。シャルローヌは静かに息を吐く。潮の香り、焚火のあたたかさ、隣にいる人のぬくもり――そのすべてが、いまの自分を包んでいる。
(あのときこの村では、“生きる”って、それだけで精一杯だった)
「うーん。考えるのは苦手だー。わかるときにわかればいい。まずは——生きる。いま、わたしはシャル」
そう決意した自分の姿がよみがえる。
(でもいまは、ちゃんとわかる)
生きるということは、誰かと笑い、誰かのために強くなれるということ。
そして、自分の気持ちから逃げずに、自分のことも大切に思うこと。
みんなが、教えてくれた。
「いまのわたしは、シャルローヌ」
小さく呟いた声が、夜の海へ溶けていく。肩のビジュが「ピルッ」と返事をした。
焚火の光が彼女の橙の瞳に映り、やさしく揺れる。
――生きて、愛して、ここに在る。
そのすべてが、いまの“わたし”だ。
波を見ながら、アレクサンドルの肩に頭を乗せる。ぬくもり。吐息。心臓の鼓動。
夜風が静かに吹き抜け、海の音が返す。水は、いつもわたしをどこかへ運んでいった。川では終わりへ、海では始まりへ。そして今は――寄せて返す波とともに、生きている。
優しい水と、鼓動の音がした。
黒太子の婚約者は剣豪聖女ー剣も心も、すくすくまっすぐー 緑山ひびき @midoriyama_hibiki
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