34.無口にも程があるでしょ!
モンテリュー公国――。
大国ヴァレンシエール王国の西、碧い海に浮かぶ小さな国。
豊かな森と澄んだ泉に恵まれ、古くから「森と泉と共に」をモットーとしてきた、静謐なる緑の国である。
国章に刻まれたのは、翠の大樹と蒼き泉。
大地に根を張る力と、清らかに流れ続ける聖なる恵み。
人々はそれを自らの誇りとし、緑と青を尊き色として旗に掲げた。
その国を治めるのは、アルマン・ド・モンテリュー。
ギヨーム王にも劣らぬ大きな体、焦茶の髪、立派な顎鬚。
威風堂々たる姿で、また、大変寡黙な男でもある。
彼の執務室には、妻セリーヌの肖像画が掛けられていた。
穏やかな微笑を浮かべ、幼子を抱いたその姿。
絵の中の赤子は、今はもう――婚約を控えた年頃の姫となっている。
その日の午後。
報せを携えた使者が、蒼白な顔で駆け込んできた。
「――大公閣下! シャルローヌ姫様の船が……!」
アルマンの手が震えた。無言で続きを促す。
「ヴァレンシエール王国へ向かう途中、嵐に遭い……船が難破したとのことです。
……姫様は行方不明に」
頭の中で、何かが砕ける音がした。
「……行方、不明?」
胸の奥から、焼けるような痛みが走る。
だから、王国になどやりたくなかったのだ――。
生涯、この手の中に置いておきたかった。
ふと、遠い日の声がよみがえる。
『アルマン様の御子を産むことができて、セリーヌは幸せでございます』
その言葉とともに、彼女は静かに息を引き取った。
産声とともに去った命。
あの日から、アルマンの世界は色を失った。
残されたのは、セリーヌとそっくりな金髪に橙の瞳をした娘。
笑えば彼女の面影、泣けば彼女の声。
その姿を見るたび、胸が引き裂かれた。
忘れ形見として大切に思う気持ちに偽りはない。
だが同時に、この子を見つめるたび、“失われた最愛”を思い出さずにはいられなかった。
成長するにつれ、シャルローヌはますますセリーヌに似ていった。
いつしか、顔を合わせるのを避けるようになった。
そして――王家から婚約の打診が来た。
最初は、のらりくらりとかわした。
「姫はまだ若い」「病弱だ」「海が荒れていて渡航は難しい」――
ありとあらゆる理由を並べて時間を稼いだ。
だが、王家の圧力は強かった。
幾度断っても、何年断っても、文が届く。
やがては大使が直々に訪れ、
「ヴァレンシエールとの縁を軽んずるおつもりか」と詰め寄られた。
アルマンは、奥歯を噛みしめた。
王国に逆らえば、公国そのものが危うくなる。
――民のために、そして娘を守るためにも、逆らえなかった。
忸怩たる思いで、婚約を受け入れた。
だが送り出すその背に、「行ってこい」と声をかけることすらできなかった。
そして今、その子が――嵐の海に消えたというのか。
そんなことがあって良いものか!
――夜の帳が下りるころ。
部屋の奥から、抑えきれぬ嗚咽が響いた。
厚い胸板を震わせながら、彼は人知れず慟哭した。
◇
それからしばらくが過ぎた頃。
ある朝、再び、使者が駆け込んだ。
「大公閣下! シャルローヌ姫様――ご無事です!」
その瞬間、椅子が倒れた。
アルマンは反射的に立ち上がり、使者の襟をつかむ。
「お、落ち着きを……! ご無事に、アレクサンドル王子殿下のもとへ……」
報告を聞き終えると、アルマンはその場に崩れ落ちるように座り込み、顔を覆った。
気を利かせた従者たちが廊下を去ったあと、執務室の扉の向こうから――嗚咽が漏れたのは、言うまでもない。
◇
ヴァレンシエール王国の城門が開き、朝の光が白い石畳に降り注いでいた。
その前に立つのは、ひときわ大きな影。
モンテリュー公、アルマン・ド・モンテリュー。
深緑の外套に包まれた巨体が、ただ黙って城を見上げている。
その隣に、やけに緊張した顔の青年がいた。
公国の若き騎士――ブノワ・ド・ヴェルネ。
主の無言に慣れているはずの彼でさえ、今日はやけに背中が汗ばんでいた。
「……アルマン様、落ち着いてくださいませ。
あくまで“娘の幸せを見届けに来た”という名目ですから」
沈黙。
「はい、無言の了解と受け取りました!」
城門の衛兵が一瞬びくりと身を引いた。
どう見ても、この若い騎士より大公殿下のほうが強いだろうと思っている。
謁見の間。
光を受けて輝く白の大理石。
王と王妃に、アルマンが礼をとる。
「国王陛下のますますのご壮健、ならびに王妃殿下のご清祥を、心よりお慶び申し上げます。
陛下の御治世が、我が小国にも光をもたらしていること、モンテリューの民を代表し、深く感謝申し上げます。」
ギヨーム王はその言葉をしばし胸に受け止め、やがて朗らかに笑った。
「うむ、遠路よう参られた。
森と泉の国――その清き風と静けさを、わしは何より好ましく思う。
そなたがその地をよく治め、民が平らかであると聞き、まこと嬉しく思うぞ」
傍らに控えるシャルローヌの顔を見て、さらに穏やかな声で続けた。
「貴公の“聖女”がこの国を救ったのだ。
聖女の光がなければ、わしもこの通り元気でおることはなかったであろう。
そなたの血筋、まこと誇るべきものだ。」
その声は高く、穏やかに響いた。
アルマンは表情を動かさぬまま、しかしわずかに肩を震わせた。
「……感無量にございます」
「娘に会いに来たのであろう?嵐で行方知れずの報せにはさぞ胸を痛めたであろう。シャルローヌ、さあ、前へ。無事な顔を見せてやれ」
ギヨーム王に促され、シャルローヌがゆっくりと歩み出た。
「……お父さま」
柔らかく微笑む。
アルマンは、ぴたりとその場で立ち止まった。
娘の姿を見て、わずかに眉が動く。
だが言葉は出てこない。
気まずい沈黙が、聖堂に落ちた。
代わりに、ブノワが慌てて一歩前に出る。
「アルマン様はっ、『姫様のご健康なご様子に安堵いたしました』と仰っております!」
場が少し緩んだ。
シャルローヌが苦笑する。
(陛下にはあんなに滑らかに話していたのに……やっぱり、わたしには無言なんだ)
(外交だから仕方なく来たって感じが隠せてない!)
◇
食卓。
王家のもてなしとして、最高級のワインと料理が並んでいた。
だがアルマンは、ただ腕を組み、沈黙したまま座っている。
ブノワが横からおろおろと囁く。
「アルマン様は、“香りが良い。料理長に敬意を”と……!」
アレクサンドルが微笑を抑えながら頷く。
「伝えよう」
そのやり取りを見ていたシャルローヌは、さすがにため息をついた。
「お父さま、わたしに何か言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってよ」
沈黙。
「……それとも、アレックスに?」
その言葉に、アルマンはアレクサンドルを真正面から見た。
しばし無言――そして、ぼそりと一言。
「……黒い」
「黒い!? 何が!?」
また黙るアルマン。
シャルローヌは思わず頭を抱えた。
「もう……!」
とりなすようにアレクサンドルが言う。
「俺が黒いのはそのとおりだ。大公のおっしゃることは、間違っていない」
王妃マルゲリータが扇を口元に当て、くすくすと笑う。
「ほんとうに真っ黒ですものね。おほほほほ」
「ぐぬぬ」
ギヨーム王はそんな卓を眺めながら、何事か考えている様子だった。
◇
夜。
王宮の庭を歩きながら、シャルローヌは肩を落としていた。
月明かりが芝に淡く差し、ふたりの影が並んで伸びる。
「……ほんっと、何が言いたいのかわからない。無口にも程があるでしょ!」
「来て早々ずっと黙ってて。
従者の人が“アルマン様は感無量です!”とか“激しく共感しておられます!”って勝手にしゃべるの」
アレクサンドルが思わず吹き出した。
「……通訳騎士のほうが命懸けだな」
「でしょ? もう見てるこっちが気の毒になるくらい。
ばあやは、“あれでも姫様をとてもご心配なさっていたのですよ”って言うのだけど……」
シャルローヌは唇を尖らせ、足元の石畳をつま先で軽く蹴る。
アレクサンドルはそんな彼女を横目に見ながら、穏やかに言った。
「……不器用なのだろう。
それに、俺がしつこくおまえとの婚約を進めたから、思うところがあって当然だ」
「だからって“黒い”はないでしょう。ほんとにごめんなさい」
アレクサンドルが笑い、首を横に振る。
「いいや。むしろ光栄だ。“黒い”のは、俺の称号みたいなものだ」
「そんな称号いらないでしょ」
「おまえが白すぎるから、対になってちょうどいい」
その言葉に、シャルローヌは顔を赤らめた。
アレクサンドルはふと夜空を仰ぐ。
「おまえの父上は、おまえを失うのが怖いのだと思う。
俺も同じだ。……だから少しだけ、気持ちはわかる」
風が吹き抜け、白い花が小さく揺れた。
シャルローヌは立ち止まり、静かにその言葉を胸の奥で噛みしめる。
翌朝、ギヨーム王が突如、高らかに宣言した。
「アレクサンドルとシャルローヌの婚約式を行う。3日後だ!」
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