31.魔族、そしてドッカーン!

 しんと静まり返る広間。その沈黙を、低く冷たい声が裂いた。

「――余計な真似を。だが無駄なことだ」


 ラザールの顔は、もはや誰もが知る穏やかな騎士団長のものではなかった。氷の刃のような瞳、口端に浮かぶ嘲り――その輪郭を黒い影がゆがめ、見る者すべての血を凍らせた。


「癒したところで何になる。病の根はもっと深いところにある」

 長い指がひらりと動き、黒い影が床を這う。


「マルゲリータ王妃――」

「きゃっ!」


 黒い腕が彼女を引き寄せ、ラザールの指先が喉元をなぞった。

 死そのものの気配。


「ラザール!」

 アレクサンドルが剣を抜き、金属音が響く。

 しかし、王妃の首筋に突きつけられたその爪は動かない。


 ラザールが嗤う。

「どうだ、王妃よ。魔族に跪けば力をやろう。永遠の若さを。あるいは――その黒太子を葬ってやってもいい」

 そして王へ向ける。

「いや、それとも、お前を顧みぬ王を、この手で送ってやろうか?」


 空気が凍りつく。誰もが、王妃が揺らぐのではと恐れた、その刹那――


「黙れ!!!」


 王妃の声が広間を震わせた。その瞳は怒りに燃え、ラザールを真っ向から射抜く。

「其方は陛下の一の騎士であろう!それを裏切り、欺き、あまつさえお命まで奪おうなど――!」

 彼女は首筋にかかる爪を払い捨てるように言い放つ。

 「陛下は其方を信じていたのだ。その尊いお気持ちを踏みにじるとは」

 美しいエメラルドグリーンの目がひときわ大きくなる。

 「心の底から許しがたい!」


 アレクサンドルも王も、その凛とした姿に息をのむ。


 「くっ」っとラザールの爪が動いた瞬間、眩い閃光が走る。シャルローヌが両手を組み、祈りの言葉を放っていた。聖女の力が金の波となり、王妃にまとわりつくラザールを弾き飛ばす。


 アレクサンドルが踏み込み、剣を掲げる。祈りの光が刃に触れ、白銀の炎が生まれた。


「この国を蝕む闇を、今ここで――断つ!」


 光の剣が黒の爪を弾き、ラザールが苦悶の叫びを上げる。

 その隙に、王が妻を抱き寄せた。


「マルゲリータがいなければ……わしは生きていけん! 彼女を奪うなら、このわしも殺せ!」


 溢れ出た王の魔力が場を圧し、誰もが息を呑む。まっすぐに放たれるその気迫に、ラザールの動きが止まった。


「……陛下?」

 王妃が震える声で呼ぶ。


「……いや。つい口走っただけだ。忘れてくれ」

 顔を赤くし、わざとらしく咳払いする王。


「陛下。もう一度……仰ってくださいませ」

 王妃の声は涙で震えていた。

「マルゲリータがいなければ生きていけないと」


「な、何を……」

「陛下!」


 観念したように、王は大きく息を吐き、叫んだ。

「わしはマルゲリータがいなければ生きていけぬ!」

 王妃は声を震わせてさらに尋ねる。

「なぜですの。なぜわたくしがいなければ生きていけぬと」

 

 ギヨーム王はためらいを捨て言い切った。

 「愛しているからに決まっておる!」


 「陛下……!」

 王妃の頬を涙が伝う。

 「陛下……国王たるもの、女一人のために死ねるなどと……」

 「そなたならそういうと思っておった。だが、まさかそのようにかわいらしい顔をしながら言うとは思いもよらず……」

 ギヨーム王のいうとおり、マルゲリータ王妃は涙にぬれた頬のまま嬉しそうにほほ笑んでいる。

 

 「……わたくしも、心よりお慕い申し上げております。ずっと、ずっと」

「そうだったのか。そうだったのか。そうだったのか! 」

 

 王は妻を抱き寄せ、二人は涙の中で見つめ合った。ふたりの指輪が共鳴し、強烈な光を放った。その輝きがシャルローヌの祈りと、アレクサンドルの剣を包みこむ。剣と祈りがひとつになり、弧を描いて闇を断つ。


 「ぐ……このふたりに、愛があっただと……?」

ラザールの体がひび割れ、崩壊し、光に呑まれて消えた。


 静寂。

 光の粒が降り、広間に温かな風が流れる。


 王と王妃は互いを見つめ、涙の中で微笑んだ。

 アレクサンドルは剣を下ろし、深く息を吐く。

「愛がある限り、奴らは入り込めない」


 シャルローヌがぽかんと口を開けた。

「……つまり両想いだったんじゃん。国巻き込んで拗らせすぎでしょ」


 リオネルが小声でぼやく。

「陛下も王妃殿下も……チョロすぎですよ」


 凍りついていた広間に、ゆっくりと生温かい空気が満ちていった。


 ◇

 

 黒い塵となって崩れ落ちたラザールの残滓は、まだ広間の空気にざらつきを残していた。だがその中心で、王と王妃は固く抱き合い、互いの存在を確かめ合っていた。


「マルゲリータがいなければ……わしは生きていけぬ」

「わたくしも、陛下を心よりお慕いしております」


 涙とともに紡がれたその言葉に、広間は大きく揺れた。廷臣たちが次々と膝をつき、口々に叫ぶ。

「陛下、万歳!」

「王妃殿下、万歳!」


 久しく冷え切っていた宮廷に、熱が戻った瞬間だった。


 その光景を見届けてから、アレクサンドルは剣を納め、静かにシャルローヌへと歩み寄った。


「シャルローヌ。……俺も同じだ」


「え? 何が?」

 きょとんと目を瞬かせるシャルローヌに、王子は少しだけ視線を逸らしながら言葉を探す。

 

「その……父上と、だ。同じ思いを抱いた」


「えっ……? 陛下と同じって、え? アレックスは、マルゲリータ王妃様のことを……?」

 素で混乱した声に、リオネルが盛大にため息をつく。

「殿下、誤解される言い方やめてください!」


 アレクサンドルは額に手を当て、深呼吸をひとつ。

「王妃殿下のことではない。……以前お前が魔獣にやられそうになったとき、父上と同じことを思った」


(あのコウモリゴリラの尻尾でたたきつけられたとき?)


 真剣な眼差しが、まっすぐにシャルローヌを射抜いた。

「……お前が失われるかもしれないと考えただけで、胸が焼けるように痛んだ」


 シャルローヌの頬に、そっと王子の手が触れる。

「俺は、お前を失いたくない。……お前がいなければ、生きていけない。俺自身のために、お前を守りたい」


「わ、わたしを……守る?」

 思わず胸が跳ねる。これまで誰かを守ることばかり考えてきた自分にとって、その言葉はあまりにも新鮮で――。


「そうだ。お前が誰かを守りたいように……俺にも、お前を守らせろ。シャルローヌ」


 ――心臓が、熱い。


 シャルローヌの頬が赤く染まり、ぐるぐると体の中を回りはじめた熱に、指輪が共鳴して特大の光を放った。それは夜空に打ち上がる花火のように、巨大な祝福の光となって天へ昇り、王城全体を包んだ。


 「うわっ!」

 廷臣たちが息を呑む中、兵も市民も、皆が温かい光に目を見張る。ビジュが羽を広げ、その光の中を美しく飛んだ。


「おいおい、ずいぶんと派手に告白への返事をばら撒いたな」

 リオネルが大笑いしている。


 アレクサンドルは祝福の真ん中で、光の洪水を浴びて立ち尽くしている。


「ち、違いますから!? いまのはそういうんじゃなくて!」

 真っ赤になって両手をぶんぶん振るシャルローヌ。

 

 アレクサンドルが一瞬目を伏せ、わずかに肩を落とした。

「……そうか。やはりお前の中には、俺への気持ちは――」


「ち、ちがう! ちがった、いや、ちがわない! ええと……!」

 自分でも何を言っているのかわからなくなり、顔まで真っ赤になる。

 (……逃げないって、決めたんだった)


「ただ……あんなに大げさに祝福があがったから、恥ずかしかっただけで」

「恥ずかしかった、だけ……?」

 アレクサンドルがほんの少しだけ顔を上げる。

 その目に、かすかな希望の色が差した。


「ええと、その……」

 シャルローヌは両手を胸の前で握りしめ、小さく息を吸った。

「……守って、ください」


 その瞬間、アレクサンドルの胸の奥が大きく脈打つ。

 漆黒の光が弾け、床を駆け、天へと立ち昇った。


 金と黒――相反する二つの光が絡み合い、ひとつの円環を描く。

 夜と昼の境のように、互いの輝きを引き立てながら、王城を包みこんだ。


 人々が息を呑む。

 ビジュが空を横切り、その羽が二色の光を散らす。

 

「うわあ……今度はツートンカラー」

 リオネルが笑いながら呟く。

「おい、リオネル。口外するな」

「もう王都全域が見てますけど」


 光はゆっくりと溶けるように消えていき、残ったのは、少し照れたように見つめ合う二人の姿だった。


 王妃マルゲリータが優雅に扇を傾けた。

「陛下は、ちゃんと“愛しているからだ”とおっしゃいましたのに」

 つややかな声に、どこか勝ち誇った響きが混じる。


 ぐぬぬ、とアレクサンドルのこめかみがぴくりと動く。


 「まあ、わたくしたちは魔力をきっちり制御しておりますから、あのように光をまき散らすことはありませんの。ねえ、陛下?」

「う、うむ……いや、あれは若い証拠ということで……」

「うふふ。黒太子殿下は――そういうところがまだまだですわね。おほほほほ」


 「ぐぬぬぬぬ……!」

 アレクサンドルが完全に固まっている横で、シャルローヌは必死に笑いをこらえていた。


 リオネルは頭を抱えて小声でぼやいた。

「まだやるのか、このお二人は……」


 祝福の残光がまだ天井を照らし、広間にはあたたかな光が漂っていた。まるで、国全体が笑いながら祝福しているようだった。


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