29.ギヨーム王の様子

 アレクサンドルとシャルローヌたちは、王城へと戻ってきた。

 雷雨はすっかり止み、濡れた城門の石畳には、光を映した空が揺らめいている。

 だが王宮の空気は、重く張りつめていた。


 出迎えた侍従が深々と頭を下げる。

「殿下、陛下が……お目覚めになりました。そして、起き上がられておいでです」

「なに?」アレクサンドルが目を見開く。「父上が起き上がっていらっしゃるだと?」

「はい。ですが、かなりご無理をなさっているのは明らかでございます」


 アレクサンドルは短く息を吐き、すぐに王の私室へと向かった。

 シャルローヌもその背に続く。


 ◇


 王の私室。

 薄曇りの光が窓から差しこみ、香木の煙が淡く揺れていた。


 ギヨーム王は椅子に腰かけていた。

 その姿勢こそ堂々としていたが、頬はやつれ、手の甲には血管が浮き出ている。

 アレクサンドルの入室が告げられ、ともに連れ添う白い衣の少女に目を留めた。


「……よくぞ戻った、聖女殿――いや、シャルローヌ姫」

 かすれた声だったが、その響きには確かな喜びがあった。

「もうよいのか? 無理をしておらぬか」


 王は、玉座の主の顔ではなく、一人の父のように問いかけていた。


 シャルローヌは胸に手を当てて、静かに頭を下げる。

「このような簡素な出で立ちでお目見えし面目もございません。ご心配をおかけいたしました」

 (わたしのことより、ご自分のことでしょうに……)

 心の中でそうつぶやく。


 そのとき、横に立つアレクサンドルがやわらかく微笑んだ。

「もう大丈夫そうです。しばらく休養を取って、すっかり顔色も戻りました。父上がご心配なされていると聞き、急ぎここへ連れてまいりました」


 王はゆっくりと頷いた。

 その眼差しが、ほんの一瞬だけ遠くを見た。


(このようなアレクサンドルの表情は珍しい……やはり、この姫こそが似つかわしいのではないか)


 戦や政の理屈を超えたところで、この二人は支え合っている――

 そう思うと、胸の奥が静かに疼いた。


「うむ。安堵したぞ。それに……よい顔をしておるな、二人とも」

 王の口元にわずかな笑みが戻る。

「ならば、わしももう少し、しぶとく生きねばならぬか」


 アレクサンドルが苦笑する。

「陛下には、まだ国をお導きいただかねばなりません。そのためにも今はご無理なさらず横になられてください」


 それでも王は唇の端を上げてみせた。

「……ふん。こうして椅子に座れるうちはまだ余裕があるわ。案ずるな、アレクサンドル」


 明らかに無理をしているのに、堂々とした姿勢を崩そうとしない。

 (もう……息子の心配くらい素直に受け止めてあげて)

 シャルローヌは胸の内で小さくつぶやいた。


 そのとき、横に控えていた銀髪の騎士――ラザールが、一歩進み出る。

「おそれながら、陛下。お言葉は勇ましくとも、御身を労わらねばなりません。この国にとって、陛下のお体以上に大切なものはございません」


 王はしばし黙し、やがて大きく息を吐く。

「わかったわかった。ラザールの言うことには逆らえんな。このあとは休むことにする」

 咳がこみ上げる。だがそれを笑いでごまかすように、王は肩を震わせた。


 王妃マルゲリータが静かに立ち上がる。

 銀の盆に載せられた杯を、両手で恭しく差し出した。

「陛下、どうか喉を潤してくださいませ」


 王はほんのわずかにためらい、やがて盃を受け取った。

 白い指先がわずかに震える。

 すぐそばでは侍女たちが息を潜め、アレクサンドルとシャルローヌも黙って見守っていた。


 王は盃を口に運び、一息で飲み干す。

「……甘露であった。其方は……動じぬな」


 マルゲリータは扇の奥で微笑む。

 「すべては、陛下の御心のままに」


 その盃を受け取ろうと、ラザールがすっと手を差し出した。

 「その盃はこちらで片づけましょう」

 だが王妃はすぐにかぶせるように応じる。

 「騎士団長のお手を煩わせるわけにはまいりませぬ。これを」

 軽く視線を流すと、侍女がすぐに盃を受け取り、静かに下がった。


 アレクサンドルの眉がかすかに動く。

 ラザールはその様子を横目で捉えながらも、表情を崩さない。


 王はラザールの腕を借りて立ち上がった。

 そのまま、王妃を見つめる。

「マルゲリータ。其方はいつも……美しいな」


 一瞬、王妃の瞳が見開かれた。

「ははは。少しは動揺させたか。ははは!」

 王は機嫌よさそうに笑い、ゆっくりと部屋を出て行く。


 マルゲリータ王妃の扇が、わずかに音を立てて閉じられた。

 薄闇の中、扇の縁をなぞる王妃の指が――白く冷たく、そして艶やかに光っていた。


 ◇


 謁見のあと、シャルローヌは王宮の廊下を歩きながら胸のざわめきを抑えられずにいた。

 王の顔は笑っていた。だがその御身には、深い苦しみのようなものが張り付いていた。

 それに気づいた瞬間、胸が強く締めつけられる。


(あれは……ただの疲れや病じゃない。何か、もっと黒いものに侵されてる……)


「シャルローヌ」

 低い声に振り返ると、アレクサンドルが立っていた。

 青い瞳が真っ直ぐに彼女を見つめている。


「父上を見て――どう思った」


 説明のしようがなく、一瞬言葉を失う。

 けれど、この人なら話を聞いてくれる。そう思えた。


「……病じゃないと思う。あれは、何か黒いようなものに侵されてる気がするの」


 アレクサンドルの目が細められる。

「黒いものとは?」


「うーん……アレックスから時々出る“黒いもやもや”とは違うの。

 魔力の濁りというより……もっと深くて、冷たいもの。

 見えないのに、体の奥を締めつける感じ」


 自分でもうまく言葉にできず、視線を伏せる。

 けれどアレクサンドルは否定しなかった。


「同じだ。俺も、ずっとそう感じていた。

 病ではなく――毒、あるいは呪詛の類だと」


 シャルローヌがはっと顔を上げる。

「毒や、呪詛……」


 アレクサンドルは静かに頷いた。

「もしそれが真なら、癒しの力で浄化できるか?」


 シャルローヌは間を置かず即答する。

「やってみないとわからない。でも、もちろん、やります」


 その言葉に、アレクサンドルの目がわずかに柔らいだ。

 雨上がりの光を思わせる青。

「ありがとう、シャルローヌ」


(ありがとう、じゃないよ。助けたいの。あなたと、あなたの大切な人を)

 胸の奥でそうつぶやき、シャルローヌはまっすぐ前を見た。

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