28.雷雨に飛ぶ、導きの翼

 王城は重く沈んでいた。

 空一面を雲が覆い、陽の光は届かない。

 灰色の雨が、石造りの屋根を細かく叩きつけていた。


 ギヨーム王は、ついに床から起き上がれなくなっていた。

 薬も、祈祷師の祝詞も、どれも効かない。

 枕元には薬瓶と聖具が並び、医師たちは沈痛な面持ちで首を振る。

 祈祷師の声も、もはや王の意識には届かなかった。

 その寝所には、沈黙と湿った空気が満ちていた。


 王妃マルゲリータは扇を閉じ、ひそやかに吐息を漏らした。

 「……こんなときに、聖女の力が使えぬとは」


 寝所を出ると、廊下にイサドラが控えていた。

 「王妃殿下、陛下のお加減は?」

 「悪化しているわ」

 マルゲリータは首を振る。

 イサドラはわざとらしくため息をつき、唇をゆがめた。

 「まったく……聖女と呼ばれても、役に立たないものね」

 その言葉に、王妃は苦笑を浮かべる。

 「……口に出してはなりませんよ。けれど、気持ちは分かるわ」

 二人の会話は雨音に紛れて遠ざかっていく。


 その影を、廊下の奥で見つめていた者がいた。

 アレクサンドル。

 暗い光の中で、拳を握りしめる。

 (……父上が倒れ、国が揺らいでいる。この状況で、まだ権勢を計り、聖女を愚弄するのか)


 寝所へ赴くと、侍医たちが頭を垂れた。

 陛下のご容体、芳しくございません。……もはや打つ手が」

 「下がれ」

 アレクサンドルの声は低く、鋭い。


 王の枕元に膝をつき、その手を取る。

 冷たい。

 命の灯が、風前の火のように揺らいでいる。

 (父上……)


 ふと、脳裏にあの光景が浮かんだ。

 ――十年前。王宮の庭で、ひとりの少女が小鳥の命を救った。あの“青い鳥の奇跡”。


 (あの光……あの力。あれが本物の“癒し”だ)


 アレクサンドルは逡巡する。

(シャルローヌを呼ぶべきか……?)

 あの失敗のあと、どれほど傷ついたことか。俺は彼女を守れなかった。

 力が戻らぬまま、無理をすれば――今度こそ心が折れる。

 彼女をそんな目にあわせたくない。


 けれど、王を救う術はもうない。

 薬も祈りも尽きた。

 残された可能性は――あの青い光だけ。


 だが、その“ひとつ”を選ぶことに、心が激しく揺れている。

 雨が窓を叩く音が、やけに近く聞こえた。


 そのときだった。

 ――コン、コン。

 小さな音が窓硝子を打つ。


 振り向くと、そこに一羽の青い小鳥がいた。

 びしょ濡れになりながら、ガラス越しに彼を見上げている。

 胸の橙が、雨粒の光をはね返していた。


 「……ビジュ?」


 まるで答えるように、小鳥は短く鳴き、首をかしげる。

 そのつぶらな瞳に、確かな意志があった。

 まるで「早く」と促すように、一声だけ鳴く。


 そして次の瞬間、北の空へと飛び立った。

 その方角――クロード翁の館。


 アレクサンドルは数秒、目を閉じた。

 そして低くつぶやいた。

 「……導くのか。おまえが」


 黒い外套を翻して廊下を駆け抜ける。


 外は激しい雨。

 アレクサンドルが廊下を進もうとしたとき、鮮やかな紅のドレスが行く手を遮った。


 「殿下、どちらへ行かれるの?」

 イサドラだった。

 白い指が、まるで所有物を止めるように彼の袖をつかむ。

 「今宵はわたくしとのお茶の約束がございますわ。あの方々とのお話ばかりで、つまらないのですもの」


 アレクサンドルは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。

 その青い瞳に、炎のような光が一瞬宿る。


 「……約束などしていない」

 「まあ! 殿下はいつもお忙しいから、わたくしが覚えておいて差し上げたのですわ」

 甘えた声。だが彼の表情は、微動だにしなかった。


 「其方の相手をするのは、“社交”という名の執務の一環にすぎぬ」

 低く抑えた声が、廊下の空気を震わせた。

 「夜の私的な時間まで干渉する権利は、其方にはない」


 イサドラの笑みが凍る。

 それでも負けじと胸を張った。

 「……殿下はわたくしの婚約者ですのに?」


 アレクサンドルは冷たく目を細めた。

 「“婚約者”の名を冠しても、尊ぶべきは理と節度だ。なんでも自分の思い通りになるという思い上がり――」

 間を置いて、淡々と告げる。

 「――それが、あのマルゲリータ王妃の姪とは思えぬほどの、愚かさだ」


 「……ッ!」

 イサドラの顔が紅潮し、唇が震える。


 その背後から、ひそかに様子を見ていたリオネルが小声でぼやいた。

 「はい出た、“黒太子の真顔モード”」


 アレクサンドルは、彼女の抗議を一切聞かずに背を向けた。

 「下がれ」

 たった二音。

 それだけで、イサドラは何も言えなくなる。


 「……殿下、わたくしを軽んじて後悔なさいませ!」

 背後から叫ぶ声。


 リオネルが片眉を上げ、ぼそりとつぶやいた。

 「いや、後悔するのは“約束を勝手に作ったほう”だと思うけどな」


 アレクサンドルは聞こえないふりで歩き出す。

 リオネルが追いつく。


 「リオネル」

 「もう止めない。どうせ止まらないのだろ?」

 「……王が倒れた。聖女のもとへ行く」

 「御意。……でも殿下、雷鳴ってますよ?」

 「構わん」


 マントを翻し、扉を押し開ける。

 その瞬間、稲光が塔を照らした。


 黒馬が嘶き、雨の夜を裂く。

 ビジュがその先を導くように飛び立った。


 「……ほんと、“雷鳴ってる方向に突っ込む王子”ってどうなんだ」

 リオネルは苦笑しながらつぶやく。


 雨を蹴って駆け出す。

 黒いマントが風に舞い、二騎の影が闇の中へ消えた。


 ◇


 雷鳴が遠くでうなった。

 クロード邸の門前に、ずぶ濡れの馬が二頭、泥を跳ねて止まる。

 外套の裾を翻し、アレクサンドルが飛び降りた。


「殿下!? この雨の中を……!」

 扉を開けた執事が声を上げる。

 その背後から現れたクロード翁は、驚きもしなかった。


「やれやれ。まるで昔の戦場にでも戻ったかのようじゃな」

 落ち着き払った声で言う。

 「さあ、中へ。火をおこさせよう」

 とリオネルと共に二人を応接の間へ通した。


 アレクサンドルは外套を脱ぐのももどかしく、

 「シャルローヌは――」と言いかけた瞬間、低い声がその言葉を遮った。


「追い出したのは、そちら様です」


 振り向くと、そこにばあやがいた。

 静かで、しかし一分の迷いもない瞳。


「王子殿下。礼をわきまえてくださいますよう」


 短く、鋭く。それだけを告げて一礼する。

 アレクサンドルの喉がわずかに詰まった。

 すぐに膝を折り、低く頭を下げる。


「……お言葉、痛み入る。あのときの非は、すべて俺にある」


 雨のしずくが床に落ちた。

 その音が、長い沈黙のように響く。


 と――廊下の向こうから軽い足音。


「アレックス……?」


 シャルローヌが戸口に立っていた。


 濡れた黒髪から水滴を滴らせたままのアレクサンドル。

 外套の肩に残る雨の跡が、灯りに濡れて鈍く光る。

 その姿は、嵐の中から現れた騎士そのものだった。


 対するシャルローヌは、儀礼衣でも聖女服でもない。

 部屋着姿――淡い生成りのワンピースに、肩までの髪をまとめただけ。

 けれど、その簡素さがかえって彼女の素の美しさを際立たせていた。


 ふたりの視線が、ふとぶつかる。


(びしょ濡れでもかっこいいなんて……反則)

(華美なドレスなどなくとも、こんなにも可憐だとは……)


 たがいに一瞬、言葉を忘れる。

 雨の雫が床に落ちる音だけが、二人の間をつないでいた。


 驚きと、少しの動揺。

 それでも、シャルローヌの瞳はまっすぐだった。


「王都で……何かあったの?」


 アレクサンドルはゆっくりと立ち上がり、息を整えて告げた。

 

「父上の容体が悪い。薬も祈祷も効かない。……おまえの“光”が、必要だ」


 シャルローヌは一瞬だけ目を伏せた。

 そして顔を上げ、まっすぐ言った。


「――行きます」


 アレクサンドルの瞳がかすかに揺れる。

 それは予想していたよりも、ずっと強い返事だった。


「ビジュが……おまえのところへ飛んだ。まるで導くように」

「うん、知ってる。あの子、ずっと鳴いてた。“行ってあげて”って言ってたのかもしれない」


 その言葉に、アレクサンドルの胸の奥が温かくなる。

 雨に濡れた黒髪から水滴が落ちるのも気にせず、彼は一歩、彼女の前へ進んだ。


「……すまなかった、シャルローヌ」


 低い声だった。けれど、その響きには確かな痛みと真摯さが宿っていた。

「おまえを、追い詰めた。王妃の思惑も、国の事情も、全部言い訳だ。おまえに傷を負わせたのは、この俺だ」


 シャルローヌは驚いたように瞬きをした。

 けれど、すぐに微笑んだ。

 涙ではなく、あたたかな笑みで。


「あなたは悪くない、アレックス。

 わたしが逃げていたの。ちゃんと考えることから、逃げていたの。

 ここでずっと考えていてやっとそのことに気づいた。

 そして――もう逃げないって決めたの」


 アレクサンドルは息を呑んだ。

 雨上がりの光を受けたシャルローヌの瞳が、真っすぐに彼を映していた。

 そこには、迷いも怒りもなく、ただ澄んだ決意だけがあった。


「ありがとう。迎えに来てくれて。またあなたから、もらった」


 アレクサンドルの胸に、何かがやさしく落ちた。

 それは雨の名残か、あるいは――救いのような涙だったのかもしれない。


 しばし、ふたりの間に静かな時間が流れた。

 濡れた空気に、春の匂いが混じる。


 ふと見ると、ばあやがすでに支度を整えていた。

 「抜かりはございません」とばあや。

 「風向きが変わったようじゃな」とクロード翁は笑い「道中は私も同行しよう」と言う。


 玄関を出ると、

 ――雨は、もう止んでいた。


 雲の切れ間から光が差しこみ、濡れた庭の花々がきらめく。

 石畳に映る空が、淡い青を取り戻している。


 シャルローヌは一歩、アレクサンドルの隣に立った。

 背筋を伸ばし、凛とした声で言う。


「雨が上がった。もう、大丈夫。行きましょう。国王陛下を、お助けに」


 アレクサンドルは静かに頷いた。

 その横顔に、これまでとは違う穏やかな光が宿っている。


 リオネルは少し離れた場所で二人を見つめ、

 (……姫様、顔つきが変わったな)と心の中でつぶやいた。


 風が吹き、雨の名残をさらっていく。

 シャルローヌは空を見上げ、柔らかく微笑んだ。


 その笑顔に応えるように、ビジュが小さく鳴いた。

 光の中へ――四人と一羽は、王宮へ向けて出発した。

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