27.剣を持たない稽古「ようこそ片思い!」
丘の館の朝は、王都より少し遅い。 霧が晴れ、遠くの森で鳥が鳴いている。
クロード翁の庭で、シャルローヌは剣を抜かずに立っていた。
剣を持たない稽古――それが翁の言いつけだった。
「剣は心の延長だ。だがな、姫さん。心が迷えば、剣も迷う」
翁は湯気の立つ茶をすすりながら、まるで昔から彼女を見てきたように言う。
「今のおぬしは、刃を研ぐより、己を見つめ直すほうが先じゃ」
その言葉に、シャルローヌはうなずいた。
剣を握れば呼吸は整う。頭を空っぽにして、ただ前を見ればいい。
けれど、翁はそれをやめろと言っている。
――考えろ、と。
(……考えるの、苦手)
それは帯刀瑠璃子だったころから変わらない。
警察官として現場を走っていたときも、よく言われた。
「おまえ、行動が速すぎる。考える前に突っ込むな」
でも、考えると怖くなる。
人を疑うことも、誰かを失うことも。
だから動き続けてきた。動けば、ごまかせた。
けれど今は、逃げても何も変わらない。
(逃げずに考えよう。……わたしの気持ちは、どこにあったんだろう)
アレクサンドルがイサドラと婚約する、と聞いたとき、本気で彼の幸せを願ったと思っていた。
「いいと思うよ。国のためでしょ?」――あのとき、自分は笑っていた。
ひどく明るい笑顔で。
けれど婚約式のあと。
アレクサンドルがイサドラの手の甲に口づけした光景が、自分の指を握り、青い石を渡してくれた日の記憶と重なった。
あの瞳の色――コバルトブルー。
見た瞬間、胸の奥が悲鳴を上げた。
(ああ、わたしはアレックスが好き。誰にも渡したくない)
そして思い知る。
自分で「聖女は物じゃない」と言いながら、アレクサンドルを“国のための立場”として扱っていたのは、他ならぬ自分だったのだと。
(あのときから、もう力が出なくなってたんだ)
ぽつりと呟く声を、ビジュが小首をかしげて聞いていた。
「遅かったんだね、私。……自分の気持ちに気づくのが」
指先でその羽根をなでながら、かすかに笑う。
「でもね、遅れた理由はちゃんとあるの。 “好き”って思ってしまったら、終わりが来る気がして、怖かったんだ」
風が庭を通り抜け、花の香りを運ぶ。
剣では斬れない痛み。
それをどう抱えて生きればいいのか、まだわからない。
◇
ばあやは、何も聞かずに見守っていた。
夜更けにふと目を覚ますと、シャルローヌが縁側で膝を抱えていることがある。
そのたびに、ただそっと毛布を肩にかけてやる。
「姫様、夜風で冷えますよ」
「ありがとう。……ねえ、ばあや」
「はい」
「考えるって、どうすればいいんだろう」
ばあやは静かに笑った。
「答えを急がずに、心がどこを向いているのかを見てみることです。
姫様の剣は迷いを斬りますが、心は急には整いません」
「……そうだね。剣道八段でも、恋愛は初段未満だよ」
「段位は上がるものでございます。焦らず、稽古なさいませ」
そのやり取りに、少しだけ笑いが戻った。
◇
夜。
風に乗って虫の声が聞こえる。
燭台の灯が揺れる部屋で、シャルローヌは机に紙を広げていた。
剣術の型を書き出すように、心の中の整理をしてみようと思ったのだ。
――どうしてあの人を好きになったのか。
――どうして気づかなかったのか。
――どうして祝福を送れなかったのか。
筆が止まる。
ふと思い立って、主語を変えてみた。
(アレックスが――)
アレックスがしてくれたことを、ひとつずつ思い出して書いていく。
アレックスは、最初に王都でばったり会ったとき、「生きていた!」と本気で安堵した顔を見せてくれた。
嵐のあと、兵を出して探してくれたのも、彼だった。
アレックスは、アレックスは……。
夢中でアレクサンドルがしてくれたことを書きだしていくうちに、胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
(こんなにたくさん、わたしのことを想ってくれていたんだ……)
気づけば、紙の上はびっしりと文字で埋まっていた。
震える指でその紙を持ち上げ、傍らのばあやに向かって読み上げる。
「アレックスはね、最初に王都で会ったとき、“生きていた!”って言ってくれたの」
声はまだ落ち着いていた。
「嵐のあとも、兵を出して探してくれて……居場所を見つけると、“守るために庇護下に入れ”って」
言葉を重ねるごとに、声がかすれていく。
ばあやは何も言わず、じっと聞いていた。
「王宮で意地悪を言われたとき、間に立ってくれた。
一緒に走ってくれた。
“水に近づくな”って怒ってくれた。
……国宝の石もくれたの。
魔獣のときも、“俺の女に手を出すな”って叫んでくれた。
……つるぺたでもいいって。意味わからないけど、優しかった」
最後の方は、もう声にならなかった。
笑おうとしたけれど、頬を伝う涙が止まらなかった。
「わたし、ほんとうに何も分かってなかった。
アレックスは、あんなに優しくて、あんなにたくさんのことをしてくれていたのに」
ばあやは静かに膝をつき、シャルローヌの手を包む。
「よくぞ逃げずに思い返しました。ご立派です。さすが、ばあやのシャルローヌ姫さまです」
その声を聞いた瞬間、胸の奥の氷が、少しだけ溶けた気がした。
涙をぬぐい、シャルローヌは小さく笑った。
「アレックスが、わたしを大切に思ってくれていることは、よくわかったの。
わたしが彼を想うように、恋をしてくれているわけじゃないだろうけど……」
そう言って微笑む顔を見て、ばあやは心の中でそっとため息をついた。
(まだそこまでですか、姫様。でも……今はそれで十分です)
シャルローヌは手に残る涙の跡を見つめ、ぽつりとつぶやいた。
「次は、逃げない」
少しの沈黙のあと、シャルローヌはふっと顔を上げた。
目元にまだ涙の跡を残しながらも、いつものように明るく笑う。
「……よし!」
椅子を押して立ち上がり、机の前でぐっと拳を握る。
「初めまして、恋!」
にこりと笑って、胸に手を当てる。
「ようこそ――片思い!」
その声は夜の空気を弾ませ、部屋の隅にいたビジュがぱたぱたと羽ばたいた。
笑いながら顔を上げたシャルローヌの瞳は、どこまでも澄んでいた。
(うん。これがわたしの戦い。逃げずに、ちゃんと向き合う)
涙の跡の上に、笑顔が咲く。
夜の風がその髪を揺らし、彼女の決意を祝福するようにやさしく吹き抜けた。
◇
そのころ、扉の外。
そっと様子を見に来たカイルとエレナが、思わず顔を見合わせた。
「お元気になったようでよかったけど、シャルさん、勇ましいわね」
カイルは頭をかきながら苦笑する。
「シャル、戦いに行くわけじゃないんだぞ」
エレナがくすりと笑った。
「それに……片思いなの? そうは見えなかったけれど」
「だよなあ。黒太子の黒いもやもやに俺が何度さらされたと思ってるんだ、まったく」
カイルが無意識に胃を押さえる。
「ま、シャルのことだ。きっと勝っちまうんだろ、恋でも」
二人の笑い声が、廊下に柔らかく溶けていった。
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