26.失われた聖女の力と、優しい風の庭で
王城の大聖堂。
高い天蓋から陽光が差しこみ、金糸の刺繍を施した天幕を照らしていた。
王妃マルゲリータ主催の“王都浄化の儀”――戦の混乱を鎮め、国の繁栄を祈る式典である。
白百合の香が静かに満ちていた。
だがシャルローヌの胸の奥には、透明な小石のような痛みが沈んでいた。
(泣きすぎたせいかな……昨日、あんなに……)
まぶたの裏に、あの涙の熱がまだ残っている。
泣いても泣いても、胸の奥は軽くならなかった。
わたしはたぶん、恋というものを、初めて知った。
その瞬間、同時に“もう届かない”ことも知った。
――気づいたときには遅かった。
(大丈夫。今日は祈るだけ。国のために。みんなのために。……アレックスのためにも)
そう言い聞かせ、白い儀礼衣の裾を整える。
王妃の隣には、アレクサンドルとイサドラが並んでいた。
紅のドレスにルビーの首飾り。イサドラの微笑は華やかで、どこか人を見下ろすようでもある。
アレクサンドルは、いつもの完璧な笑みを浮かべていた。
(よかった。アレックス、ちゃんと笑えてる。……きっと幸せなんだ)
そう思おうとした。
けれど、胸の奥で何かがきゅうっと締めつけられた。
(なんで……こんなに苦しいの? わたし、彼の幸せを願ったのに)
「聖女殿下」
王妃の涼やかな声が響く。
「この国を清めるあなたの祈りを、どうか皆にお示しくださいませ」
シャルローヌは深く頷き、祭壇に進み出た。
両手を胸の前にかざす。
――いつものように、光が満ちるはずだった。
……だが、何も起きなかった。
静寂。
指先から、あの金の光が消えていた。
掌が冷たく、心の奥で何かがひび割れていく。
(どうして……?)
焦って力を込める。
だが、出てくるのは淡い靄のような光だけ。
まるで霧が溶けて消えるように、空へ散っていった。
「……聖女様?」
ざわめき。
「光が……」「どうされたのだ」「ご婚約式ではあんなに見事だったのに」
マルゲリータ王妃が、ゆっくりと扇を閉じた。
「まあ……お疲れなのね。無理をなさらないで」
その声音は優しく、瞳は冷たく。
すぐ隣で、イサドラが紅い唇を寄せた。
「まあ、聖女様でもお疲れになることがあるのね。……それとも、心に別の煩悩でも?」
(煩悩……)
刃のような一言。胸が跳ねた。
ざわつく貴族たち。
「煩悩?」「まさか、殿下と?」
くすくすと笑い声が広がる。
アレクサンドルが立ち上がり、低く言った。
「イサドラ、やめろ」
その声は静かで、凛としていた。
「まあ、わたくしは皆の前で心配して差し上げただけですわ」
紅の扇が軽やかに揺れる。
アレクサンドルはそれ以上、何も言わなかった。
ただ場を鎮めるように、あの完璧な微笑を浮かべた。
目の奥が熱くなった。
自分の胸に渦巻く感情が何なのか、もうわからない。
痛くて、苦しくて、情けなくて。
(こんなの、わたしらしくない。こんな自分、いやだ……)
(剣を握るときのほうがずっと簡単だったのに)
(心なんて、考えても答えが出ない……考えたくない)
――でも、心は逃げられなかった。
知らなければよかったと思う。
恋なんて。
知る前のわたしなら、もっと強く、まっすぐ祈れたのに。
ラザールが一歩進み出て、王に進言する。
「陛下、聖女殿下はお疲れのご様子。しばし休養を」
ギヨーム王が頷く。
「……うむ。聖女殿下、一時王宮を離れ、静養を命ずる」
シャルローヌは静かに頭を下げた。
「……かしこまりました」
その声が少しだけ震えたことに、誰も気づかない。
(どうして光が出てこないの?胸のなかの熱が冷めているのはなぜ)
白い床の上に落ちた影が、長く伸びていく。
祝福の光を失った聖女は、まるで自分自身の影に縛られるように、静かにその場に立ち尽くしていた。
――恋を知った少女は、まだ「弱さ」を受け入れられずにいた。
祈ることも、泣くことも、もう自分では選べなかった。
◇
儀式のあと。
白い回廊の端で、ばあやが待っていた。
「姫様……!」
「大丈夫。ちょっと、うまくできなかっただけ」
笑ってみせるシャルローヌの顔は、いつもより少し白かった。
ばあやはため息をつき、そっとその手を取った。
「もう、剣ばかり振ってきた腕ですもの。……たまには休ませてあげましょうね」
その声音に、優しい慰めと深い哀れみが混じっていた。
「クロード翁の館に行きましょう。あの方なら、姫様を穏やかに迎えてくださいます」
「えっ……そんな、大げさな……」
「これは命令です。王妃殿下の“ご配慮”という名目でね」
(……ご配慮。つまり、左遷)
自嘲するように笑うと、ばあやは「それでもいいんです」と囁いた。
「どんな形であれ、姫様をこの冷たい城から遠ざけられるなら」
◇
旅立ちの日。
王城の正門には、アレクサンドルの姿があった。
黒衣に身を包み、背後にはリオネルが控えている。
「行くのか」
「はい。少しの間、療養に」
「……そうか」
彼の声音は低く、まるで抑えた痛みのようだった。
けれど、顔には一切の感情がない。
完璧な王子。
完璧な仮面。
だからこそ、シャルローヌは笑った。
「殿下も、どうかお元気で。わたしがいなくても、イサドラ姫がきっと支えてくださいますね」
「……ああ」
短く答える声が、風にさらわれる。
彼の瞳がわずかに揺れたことに、彼女は気づかない。
馬車の扉が閉じられた。
出立の号令。車輪がゆっくりと回り出す。
石畳の上で、アレクサンドルはただ黙って立ち尽くしていた。
去っていく橙の髪を見つめながら。
リオネルが隣に立ち、ぼそりと呟いた。
「……ほんと、おまえらはポンコツだな」
「何の話だ」
「いや、こっちの独り言だよ、殿下」
◇
クロード翁の館に着いた。
花の咲き乱れる庭園、小川のせせらぎ、窓辺に吊るされた風鈴。
王城の重たい空気とは別世界のようだった。
屋敷の前で翁が手を広げる。
「やれやれ。王城で神々しい顔をしていたお嬢さんが、ずいぶん人間らしい顔をしておる」
「こちらへ」と屋敷のなかではなく庭へ案内された。
穏やかな風の吹くクロード邸の庭で、陽だまりの椅子に座り、シャルローヌはほっと息を吐いた。
「……ごぶさたしてます」
シャルローヌは小さく頭を下げた。
翁はその顔をじっと見て、ふっと目を細める。
「おや、光がずいぶん曇っておる。心が雨の日なのだな」
そして、用意していた湯気の立つ茶を差し出した。
「よい。雨の日も大事な日じゃ。焦らず、乾くのを待てばいい」
その言葉に、張り詰めていた何かが少し緩んだ。
頬に温かい湯気が触れる。
風がシャルローヌの金色の髪を揺らす。
庭の向こうから聞き慣れた声がした。
「シャル!」
カイルが駆けてきて、両手をばたばたさせる。
「おい、顔が真っ青だぞ! 腹、減ってないか? エレナがスープ作ったんだ、無理にでも食べろ!」
「カイル、無理に食べさせるのは違うよ」
後ろからエレナがたしなめると、カイルは頭をかいた。
「いや、だって、何かしてやらんと落ち着かねえんだよ……なあ、シャル?」
その不器用な気遣いに、シャルローヌの頬がゆるむ。
「ありがとう。……わかった。ちゃんと食べるよ」
「おう! じゃあ三杯な!」
「多いよ」
「いや、これくらい食べられなきゃ剣は振れねえ!」
カイルが声をひそめて言う。
「胃薬もあるぞ?すげえ効くやつ。食べたら飲めよ?」
「ふふ……はいはい」
エレナが笑いながらスープの盆を運び、カイルは落ち着かない様子でその後ろをうろうろしている。
その様子を眺めながら、ばあやが袖口で目元を押さえた。
「……クロード様、この場を感謝いたします」
そしてすぐに、口をきゅっと結んで言う。
「でも、食べすぎてお腹を壊さぬように。胃薬より、ゆっくり噛むことです」
「……はい、ばあや」
クロード翁が目を細めて言った。
「まこと、よい友を持ったのう」
シャルローヌは微笑み、青空を見上げた。
ビジュが肩にとまり、小さく鳴く。
(……焦らない。今は、風を感じていよう)
春の風が頬を撫で、花の香りを運んでいった。
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