24.婚約式と聖女の祝福
聖堂の鐘が、湿り気を帯びた空に重く響いた。
朝なのに、陽は射さない。雲の切れ間からこぼれる光は冷たく、まるで銀の薄布をかけたように世界を覆っていた。
外では雨がしとしとと降り、王城の庭に咲く薔薇の花弁を静かに打っている。
その雨音すら吸い込むように、聖堂の中は荘厳だった。
金と紅の絨毯が玉座までまっすぐに延び、天井にはヴァレンシエール王国の国章――双頭のグリフォンが掲げられている。
翼を広げた二つの頭が左右を見据え、まるで二国の未来を見守るようだ。
祭壇の背後にはもう一つの旗。
リリオス王国の象徴――赤い太陽と白百合が織り込まれた純白の旗が、微かな風にたなびいている。
それぞれの旗が掲げられたこの場は、まさに外交と祝祭の交差点だった。
金の燭台が幾重にも灯され、香が立ちのぼる。
列席するのは、王国中の貴族、聖職者、そしてリリオスから訪れた王と王族たち。
艶やかな衣と宝石の光が、曇天の下でもなお眩しい。
長い白布の通路を、アレクサンドルとイサドラがゆっくりと歩く。
アレクサンドルの礼装は黒と金の正装。肩にはグリフォンの紋章、腰には青の剣飾。
イサドラのドレスは真珠色の絹に、リリオスの赤い薔薇を描いた刺繍が波のように流れていた。
その横顔は確かに美しい――だが、並ぶ二人の間に満ちる沈黙は、まるで硝子のように冷たい。
アレクサンドルの胸には、誰にも見えぬ鉄の仮面があった。
その顔に浮かぶのは、完璧な微笑。
冷たいほどに美しい、王太子としての笑み。
(これでいい。国のためだ。父のためだ。……聖女のためでもある)
王妃マルゲリータは扇を優雅に傾け、リリオス王へと微笑を送る。
ギヨーム王は玉座に深く腰掛け、静かに頷いた。
リオネルは警護の位置から、友の横顔を無言で見つめている。
やがて、進行役の声が高らかに響いた。
「ヴァレンシエール王国第一王子、アレクサンドル・ド・ラ・フォント・ヴァレンシエ!
リリオス王国第二王女、イサドラ・ルミエール!
両国の友好と繁栄をここに誓い、この婚約を宣言する!」
鐘が再び鳴り響いた。
天井のグリフォンがその音に震え、赤い太陽の旗がわずかに揺れた。
その瞬間、聖堂の外では、雨脚が強まった。
まるで天が、この婚約の行方を測るかのように。
聖堂中に拍手が湧き起こった。
金の鐘が鳴り響き、香炉の煙が香りとともに高みに昇っていく。
その中心――祭壇の前に、聖女シャルローヌが立っていた。
白い装束に金糸の刺繍。肩から流れる薄衣が光を受けて微かに透き、 その背には祈りの光が淡く揺らめいていた。
彼女の姿を見て、ざわめきが静まる。
聖女が祈るとき、世界が光で満ちる――誰もがその瞬間を心待ちにしている。
シャルローヌは胸に手を当て、そっと目を閉じた。
(アレックス、よかったね)
(たくさんの人に祝われて、笑ってる顔が見られて――ほんとうに、よかった)
唇が、祈りの言葉を紡ぐ。
「神よ、この二人の結びを祝福し、愛と栄えをもって導きたまえ」
柔らかな声が聖堂の高みに溶けていく。
その瞬間、光が静かに生まれた。
左手の青い石から、金色の粒子がシャルローヌの周囲に舞い上がり、 やがてひとつの光輪となってアレクサンドルとイサドラの上に降り注ぐ。
まるで天から零れた朝日。
それは冷たい雨の音をも包み込み、聖堂全体を淡い金色に染め上げた。
参列者たちは息を呑んだ。
「……まるで天上の祝福だ」
「聖女殿下のお力が、これほどまでに……!」
その声が次々と広がる。
リリオスの王は感嘆の面持ちでうなずき、マルゲリータ王妃は静かに扇を閉じて微笑んだ。
アレクサンドルが、ゆっくりとシャルローヌを見た。
(美しい)
その瞳に映る彼女は、まるで陽光の化身のようだった。
アレクサンドルはそう思いながらも、微笑を崩さなかった。
完璧な王子としての仮面のまま、イサドラの手を取る。
「この誓いを、神と国とに捧ぐ」
イサドラはうっとりと頷き、紅い唇を綻ばせた。
その手をアレクサンドルが取り、静かに跪く。
そして――彼はその手の甲へ、 儀礼の口付けを捧げた。
光が揺らめく。金糸が風に舞う。
シャルローヌは、その光景をやり切った充実感で見つめていた。
(アレックス。どうか幸せになって)
(あなたが笑っていられるなら、それがいちばん嬉しい)
祈りの光が消えると同時に、聖堂中が拍手に包まれた。
天窓から差すわずかな陽の光が、雨粒を金に照らして降り注ぐ。
その光景は、まるで“天が二人を祝福している”かのようだった。
イサドラが満面の笑みでアレクサンドルの腕に手を添える。
アレクサンドルは完璧な笑顔で応じる。
その姿は絵画のように美しく、儀礼の極みだった。
周囲が歓声と祝福に包まれる。
花弁が舞い、竪琴の音が流れ、 金の鐘がふたたび鳴り響く。
二人は聖堂の扉へと歩き出した。
イサドラのドレスが光を反射し、赤い薔薇の刺繍が波打つ。
アレクサンドルの黒衣の肩には、双頭のグリフォンの紋章。
それを背に、二人は“国の未来”として歩んでいく。
扉が静かに閉まる。
光の粒が散り、音が消える。
――聖堂に、ひとり残ったのはシャルローヌだった。
静寂。
祭壇に残る祈りの光が、淡く瞬いている。
その中心で、シャルローヌは立ち尽くしていた。
手のひらに、さっきまで宿っていた“祝福の光”のぬくもりが残っている。
それをそっと握りしめた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
(……あれ?)
おもいだす。
あの日――指輪の宝石を交換したときのことを。
彼の手が自分の手を包み、なぜだか胸が早鐘を打ったあの瞬間を。
笑ってごまかした。
冷やかされて照れた。
深く考えるのが怖くて、その気持ちの正体を見ようともしなかった。
「婚約式のようだ」と言われた、あのとき。
そしていま――本物の婚約式で、アレクサンドルに祝福を送った。
聖女として。
彼の隣に立っていたのは、自分ではなかった。
(ズキッ……)
胸が痛む。
視線を落とすと、薬指の指輪がかすかに光っていた。
コバルトブルー――彼の瞳と同じ色。
見た瞬間、呼吸が止まった。
(アレックス……)
その名を呼んだとき、頬を涙が伝った。
床に膝をつき、もう片方の手で左手を包む。
冷たい。あのときのぬくもりは、もうどこにもない。
嗚咽が、こぼれた。
押し殺しても止まらない。
涙が床を打ち、聖堂の静けさに小さな音を刻んでいく。
大声をあげて、子どものように泣いた。
(アレックス……アレックス……)
いつまでそうして泣き続けていただろう。
――その背に、そっと外套がかけられた。
「……姫様」
ばあやだった。
何も尋ねず、ただその肩を抱き寄せる。
震える背を包みこむように、静かに。
シャルローヌは、ばあやの胸でただ泣き続けた。
聖堂の外では、雨が止まない。
空の涙のように、静かで、果てしなく。
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