17.王の不調と夜の王宮ラン

 その日、シャルローヌは王妃マルゲリータの勅命で、王の執務の場に呼ばれていた。

「聖女と噂される娘、陛下の御前でしかと拝見したい」――そう言われたのだ。


 重厚な扉の奥、王が玉座に腰かけている。

(何を拝見されちゃうのかな。わたしに執務はできませんよ?)

 内心の揺れを隠し、シャルローヌはおとなしく姿勢正しく座っていた。


 廷臣が政務の報告を述べる最中のことだった。

 不意に王の瞳がかすかに揺らぎ、体が前のめりになった。


「陛下!」


 ざわめきが広がる。

 その瞬間、王妃マルゲリータがすっと立ち上がった。


 裾を翻し、迷いなく夫の傍らへ歩み寄る。

「皆の者、騒ぎ立てるな」

 すらりと伸ばした手で王の肩を支えながら、冷静に声を放った。


 王は苦しげに胸を押さえ、息を整えようとしている。

「……大丈夫ですわ、陛下。少しお休みになればよろしい」

 王妃は王の背をそっと支え、その顔を見つめる。


 そして、わずかに唇を弧にした。

 夫を安心させるための優しい微笑みにも見えた。

 だが同時に――得体の知れぬ静けさを宿した笑みにも。


 シャルローヌは視線を奪われ、心臓がひやりと冷える。

(……いまの微笑み、なに? ただ優しいだけ……なの?)


 廷臣たちは不安げに顔を見合わせる中、王妃はすぐに姿勢を正し、静かに命じた。

「余計な噂を立てるな。陛下はお疲れなのです」


 その声音はほんのわずか、震えを帯びているようにシャルローヌには感じられた。


 ◇


 廷臣たちがざわつく中、扉の近くから落ち着いた声が響いた。

「どうかお下がりを。陛下をお休ませするのが先決です」


 銀髪の騎士ラザールだった。

(この前わたし「剣豪聖女」って言った人)

 颯爽と歩み寄ると、深々と一礼して王妃の隣に膝をつく。


「王妃殿下、我が腕にお任せを」

「……ええ、頼みます」


 王妃が小さくうなずくと、ラザールは迷いのない所作で王を支えた。

 強靭な腕に抱えられた王の姿は、苦しげでありながらもどこか安堵を帯びている。


「……卿がいてくれると心強い」


 王はかすれた声でつぶやいた。

 ラザールは微笑を浮かべ、静かに応じる。

「 身にあまるお言葉、光栄に存じます」


 そう言って王妃と共に王を支え、別室へと運んでいく。

 重厚な扉が静かに閉じられると、広間に残った廷臣たちはしんと息を潜めた。


 シャルローヌは胸にざらりとした違和感を抱きながら、閉じた扉をじっと見つめていた。


 ◇


 重厚な扉が閉ざされ、王とラザール、そして王妃も姿を消した広間には静寂が満ちていた。


 誰もが息を潜め、互いの顔色をうかがっている。

 だが次第に、抑えた声が水のように広がっていった。


「……やはりご容態は思わしくないのでは」

「王妃殿下は冷静すぎた。まるで予期していたかのようだ」

「いや、黒太子殿下も黙していた。聖女を使って地位を固めようとしているのだろう」

「殿下は姫に夢中だそうじゃないか」

「異国の娘に国を任せられるものか」

「剣など振るう女など、宮廷の秩序を乱すだけだ」


 囁きは矢のように飛び交い、矛先はことごとくシャルローヌへと向けられていた。

(はう? わたしと何か関係ある? ……勘弁してほしいんですけど!)


 シャルローヌは顔に出さぬよう努めながらも、心の奥で大きくため息をついた。


 そのとき、冷えた声が空気を断ち切った。

「リオネル。陛下のご快癒を祈る声が聞こえてこないのは、俺の耳が悪いせいだろうか?」


 アレクサンドルのコバルトブルーの瞳が、広間を射抜く。

 リオネルは肩をすくめ、薄く笑んだ。

「殿下の耳ではなく、口と頭の悪い者が多いのだと愚考いたします」


 刹那、広間のざわめきがぴたりと止んだ。

(アレックスもリオネルもやるじゃん!)


 シャルローヌは思わず心の中で拍手した。


 ◇


 客間に戻ると、カイルがひとりで待っていた。椅子に腰掛けていた彼は、落ち着かない様子で窓の外を見ていたが、シャルローヌとばあやに気づくと立ち上がった。


「シャル……」


 低く声をひそめる。

「また、娘がひとり行方不明になったと」


「……え?」


「ここしばらく、若い娘が次々に姿を消している。しかもみんな金髪らしい――エレナの件も、きっと……」


「エレナも金髪なの?」

カイルが頷く。

「間違いなく繋がってる。こんな偶然、あるもんか」


 シャルローヌは胸の奥に重さを感じた。

(……権力争いの噂なんかより、よほど切実じゃない。人が何人も消えてる)


 握りしめた拳に力がこもる。窓辺のビジュが「ピルルッ」と鳴き、青い羽を震わせた。


 ◇


 夜の王宮の庭を、シャルローヌは駆けていた。重苦しい気持ちを振り払うように、石畳を蹴る。体を動かせば、頭もすっきりして眠れる――そう思ってのことだった。


(……はあ、はあ……ちょっとはマシになったかな)


 そんなとき。


「夜更けに何をやっているんだ!」


 鋭い声が飛んだ。

 

 振り返ると、黒いマントを翻したアレクサンドルが庭に現れていた。月光に照らされたその姿は、鬼気迫るように見える。


「ここは王宮だ。お前の敵も潜んでいるんだぞ!」


「わかってる! でも走らないと落ち着かないの!」


 息を弾ませながら、シャルローヌは叫び、再び足を速める。アレクサンドルは呆れたように頭を抱えたが、すぐにその隣に並んで走りだした。


「ならせめて俺の目の届くところで走れ!」


 二人が庭をぐるぐる走る様子を、離れた回廊の影から眺めている者があった。リオネルとカイルである。


「……あれ、何してるんですかね?」


「さあな……殿下が追いかけて、結局一緒に走ってるようにしか見えないが」


「体力バケモンすぎる」


「まあ……楽しそうだから止めないでおこう」


 やがてシャルローヌが大きく息を吐き、足を止めた。


「……もう、限界。さすがに疲れた」


 額の汗を拭う。アレクサンドルも肩で息をしながらうなずいた。


 立ち止まった場所は庭の大きな池のほとりだった。

 水面には月が映り、夜風に小さく揺れている。


「夜気にあたるにはちょうどいいな」


 そう言って池の縁に歩み寄ろうとするアレクサンドル。その瞬間、シャルローヌの体がびくりと強張った。


「水のそばはだめだってば……」


 必死の声はかすれ震える。

 瑠璃子の最後の記憶――少年王子の黒い髪、青い瞳。

 あの川での記憶が蘇り、理屈よりも先に体が動いていた。


「王子が溺れちゃう!」


 シャルローヌは後ろからアレクサンドルを思い切り抱きしめていた。


(なっ……!?)


 アレクサンドルは硬直したまま動きをとめていた。誰かからこんなふうに抱きしめられるのは初めてだった。

 まして女性から、まして婚約者から、ましてシャルローヌから。


 鼓動だけが生き物のように大きな音をたてて高鳴る。心臓がうるさい。

(走り終わった、ばかり、だから)

 アレックスが心の中で言い訳をする。


 回廊の陰からこっそり覗いていたリオネルとカイルは、顔を見合わせた。


「……あれ、止めなくてもいいものか」


「止めたら一生恨まれる気がする」


 二人は真顔で頷き合った。


 ……しん、とした時間。


 先に我に返ったのはシャルローヌだった。

(はっ? わたしが抱きしめているこのでっかい背中はなんだっけ?)


 状況を理解した瞬間、顔から耳まで一気に真っ赤になる。


「ひゃああああああ!」


 ばっと離れたシャルローヌは、ぎゃおぎゃお意味不明な声をあげ、手足をばたばたさせていた。


「ち、ちがっ……いまのは! その……池! 水がっ……わたしっ……」


 フリーズしたままだったアレクサンドルが、ぎぎぎぎぎっとようやく再起動する。青い瞳がゆっくりと振り返り、低くひとこと。


「落ち着け」


 その声に、シャルローヌはさらに真っ赤になって固まった。


 しばらくの沈黙。夜風が吹き抜け、池の水面がさざめく。


 やがて、アレクサンドルがぽつりと呟いた。

「前にも溺れたのがどうとか言っていた……お前、水が怖いのか。」


 シャルローヌは目を見開いた。必死に首を横に振りかけたが、言葉にはならなかった。


 アレクサンドルは追及せず、ただ短く息を吐いた。

「……いい。無理に言うな」


 そして池の水面に視線を投げたまま、静かに言葉を続けた。

「ひとつだけ約束する。俺は絶対に、お前を水に近づけたりはしない」


 シャルローヌの胸がぎゅっと締めつけられる。

(ありがとう。でもちがうの……アレックス。私が聞きたいのは――あなたが落ちないって約束)


 口には出せず、胸の奥でひそかに叫んだ。


 月明かりの下、二人の影が池の縁に並んで揺れていた。

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