16.思いやりと、ほっと一息

 令嬢たちが去ったあとも、廊下の空気にはざらりとした棘が残っていた。シャルローヌは胸の奥で(……めんどくさい!)と叫びつつ、笑顔を保って歩を進める。


 まだまだ人は多い。今度はアレクサンドルも一緒に歩くことにしたらしい。

(忙しいでしょうに……お手数おかけします)


 そのとき。


「これはこれは。殿下、姫様」


 明るい声が響き、廊下の重苦しさを吹き払った。振り返ると、長身の騎士が姿を現していた。陽光を浴びた銀髪がさらりと揺れ、爽やかな笑みを浮かべている。


「ラザール卿!」


 周囲の廷臣たちがざわめき、すぐに表情を和らげた。

 その様子を見て(この人は人望のある人っぽい?)とシャルローヌは観察する。


 ラザールはにこやかに頷き、シャルローヌへ視線を向ける。

「お噂はかねがね。――名高き剣豪聖女殿、こうしてお目にかかれて光栄です」


 その声は温かく、押しつけがましさは一切ない。まるで長く会いたかった旧知に出会ったかのような自然さだった。


「いえ、私は……」


 シャルローヌが戸惑いながら口を開くと、ラザールは穏やかに遮った。

「どうか謙遜なさらず。貴女のお力は、すでに国を救っている。黒太子殿下のご婚約者は剣豪聖女。頼もしいことです」


 その言葉に、周囲の廷臣や侍女たちの表情が一斉に和らいだ。

「やはりラザール卿は……」

「真に国を思うお方だ」


 刺すような視線にさらされていた廊下は、いつの間にか和やかな空気に包まれていた。シャルローヌは戸惑いながらも、胸の奥の重苦しさが少し軽くなるのを感じていた。

(……名高き剣豪聖女、か。そんなふうに言われるなんて……)


 ラザールが去り、廊下に再び静けさが戻った。シャルローヌは歩を進めながら、隣に並ぶアレクサンドルをちらりと見上げる。


「……さっきの方。ラザール卿って、どんな人なの?」


 アレクサンドルの表情は変わらなかった。ただ、ほんの一瞬だけ視線が前方の空へ泳ぐ。

「父上の忠臣だ。若くして頭角を現し、今は騎士団長を務めている」

「騎士団長……」

「剣の腕も人望も兼ね備えた稀有な人物だ。宮廷であれほど慕われるのも当然だろう」


「……そうなんだ」


 シャルローヌは胸の奥で小さく頷き、あの爽やかな笑顔を思い出した。廷臣や侍女たちが一斉に空気を和らげたのも頷ける。

(頼れる人がいるって、いいことなのかもしれない……)


 そんな彼女の横顔を、アレクサンドルは横目でそっと見やった。


 ようやく悪意や嫌味が聞こえなくなった廊下を歩きながら、シャルローヌの心には今になって先ほどの囁きや視線がだんだんとたまっていくように重く感じられた。廷臣の皮肉、令嬢たちの敵意、そして「特別扱い」という噂。胸の奥に、ひときわ大きな棘が突き刺さったままだった。


(人の悪意って強烈ね)


 とうとう足が止まり、シャルローヌは窓辺に視線を落とした。王都の灯が遠くにきらめいている。

「……なんだか、疲れちゃった」


 ぽつりと漏れた声は、月明かりよりもかすかだった。コバルトブルーの瞳が彼女を映す。


「私は、強くあろうって思ってきた。誰かを守りたくて、剣を振るって……でもここでは、守るどころか、守られてばかりで」


 言葉がしぼんでいく。自分でも(らしくない)と思いながらつい弱音が出てしまう。


 アレクサンドルはしばし黙って彼女を見つめ、やがて静かに口を開いた。

「……お前は強い。誰も否定できないほどにな」

「うん――」

「だがな。強い者ほど、守られることを忘れてしまう」


 低い声が、真っすぐに彼女を射抜いた。

「それにお前の癒しの力は、自分自身には効かないのであろう?」


 シャルローヌははっと顔を上げた。その事実を、彼に気づかれていたとは思わなかった。


「……お前が倒れたら、誰がその力を継ぐ? 誰が守る? だからこそ――一人で背負う必要はない。俺がいる。リオネルも、クロード翁も、仲間がいる。……お前は一人じゃない」


 シャルローヌは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じる。


 アレクサンドルはわずかに目を伏せ、低く付け加える。

「他人に嫌味を言う輩は、他人の価値を下げることでしか自分を上げられない人間だ」


 はっとして顔を上げると、彼はもう前を向いて歩き出していた。横顔には何の感情も映さず、ただ真っ直ぐに。


「自分の価値は自分で決めろ。行くぞ」


「……はい」


 シャルローヌは足取りを重ねながら、その背を見つめる。先ほどまでの重さが少し和らぎ、胸の内に力が戻ってくるのを感じていた。


 ◇


 謁見の一日が終わり、夜の王宮は静けさを取り戻していた。


 与えられた客間の前まで、アレクサンドルが自ら送り届けてくれた。

「今日は疲れたであろう。ゆっくり休むといい」

 そう言ったものの、部屋の中でカイルが待っていたのを目にすると、彼の眉間にうっすらと皺が寄った。


「……なぜおまえがいる」

「いや、シャルの顔が見たくて」カイルが悪びれもせずに答える。


 険しい空気になりかけたところで、リオネルが間に割って入った。

「殿下、執務が山積みです。今宵はお引き取りを」

「……ふん」

 アレクサンドルは不機嫌そうに視線を逸らし、ほんの一拍ためらってから背を向け部屋を出て行った。


 ばあやが湯気の立つ茶器を盆に載せ、静かにテーブルへ置く。

「姫様。どうぞ」

「ありがとう、ばあや」


 温かい香りが部屋を満たし、ほっと肩の力が抜ける。

 ばあやは柔らかく笑んで言った。

「殿下がご多忙のなか、本日ご一緒くださったのも、思いやりにございますね」

「え……そうなの?」

 シャルローヌが首をかしげると、カイルが横で腕を組んでぼやいた。

「いや、単に“ずっとそばにいたかっただけ”だろ」


 唐突な言葉にシャルローヌは赤くなり、その表情を見てばあやは「まあ」と頬を緩める。


「それよりカイル。エレナのこと、どう?」

 シャルローヌが真剣な声で尋ねると、カイルは少しうつむき、苦い顔をした。

「……まだ進展はねえ。行方を探してるけど、王都の人混みに紛れたら簡単には見つからない。でもな」

 顔を上げると、その瞳は揺るぎなく光っていた。

「絶対に諦めねえ。俺が探し出す」


 その力強い言葉に、シャルローヌも胸の奥がじんと温かくなる。

「うん……カイルならできる」


 窓の外には月が冴え冴えと輝き、青い鳥ビジュがカーテンの端で羽を震わせた。

 ささやかな客間に、それぞれの想いが静かに満ちていく。


 ◇


 リオネルが、隣を歩く主を横目で見ながら、先ほどのカイルへの嫉妬を見せた表情を思い出していた。

(アレックスもだんだん表情が豊かになってきたのかもしれない。これもシャルローヌ姫のおかげだ)

 そしてふと思い出した。


「そういえば……殿下。王都で噂になっているそうですぞ」

「何がだ」

「“黒太子微笑記念日”」

「……?」

 アレクサンドルの眉がぴくりと動く。

「先日のあの一件です。殿下が笑ったときの。ご覧になられた廷臣や侍女が“今年一番の幸福だ”と騒いでおりまして」

「馬鹿げている」

「まあ、私もそう思いますが……ただ、確かに破壊力はあったようで。倒れた侍女が三名、インク壺を落とした文官が二名」

「……公務の妨げではないか」

「はい。殿下の笑顔は有害指定にすべきかもしれませんね」

 

 アレクサンドルは無言だ。


「それでその“黒太子微笑記念日”が街へも広まり。市場じゃパンが安売りされ、子どもらは口々に“また笑って!”とお願いしてると」

「なんだそれは」

「姫を馬車で王宮へお連れした日も“黒太子微笑記念日”となったそうです」

「…………」

 「まあ、みなが楽しんでいるのでよいことです」


 無言のアレクサンドルを見ながら(毎日が記念日になる日も、そう遠くないかもしれない)と思うリオネルだった。


 ◇


 夜、王宮の奥深く――。


 重いカーテンに覆われた寝室で、王は深く身を横たえていた。胸の上下は荒く、額には冷や汗がにじむ。わずかなうめき声が、広い部屋に虚しく響いた。


 その傍らに、銀髪の騎士が静かに控えていた。ラザールである。


「……其方の献身に、感謝しておる」


 かすれた声で王がつぶやく。ラザールは静かに頭を垂れた。

「陛下のお傍に仕えることが、我が誉れにございます」


 それ以上の言葉はなかった。ただ規則正しい呼吸のように、沈黙が流れる。


 やがて――視点がゆるやかに引いていく。暗がりに包まれた広い寝室。その中で、病に伏す王と寄り添う騎士の姿が、ほの暗い灯火に小さく映し出されていた。

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