13.急襲

 翌朝。王都の喧噪がまだ眠っているような静かな時間、クロード邸の庭には澄んだ朝の光が差し込んでいた。白い石畳の小径を散歩するシャルローヌの肩には、夜露がついた花びらの香りがかすかに漂ってくる。


「指輪のおかげで……久しぶりに、落ち着いて息ができる」

 大きく伸びをすると、シャルローヌの指に嵌められた淡い黄色の宝石が朝日を受けてきらりと光った。


 広間ではばあやが食卓を整え、クロード翁が新聞を広げている。

「王都は騒がしいが、ここだけは別世界のようだな」

 翁がつぶやくと、カイルはパンをかじりながら笑った。

「いやー、ちゃんとした朝飯にありつけるなんて久しぶりだぜ。まずはしっかり食ってエレナを探し出すぞ」

 ばあやが頬を緩める。シャルローヌも椅子に腰を下ろし、温かなスープを口に運んだ。


(……ほんの少しでも、こうしていられるなら。王都に来てよかったのかもしれない)


 そんな淡い安堵を抱いた、そのときだった。


 ――ドンッ、ドンッ。


 重々しい音が邸内に響いた。正門を叩く金属の衝撃音。従僕が慌てて駆け出し、次いで外から甲冑の擦れる音がどっと押し寄せてくる。


「な、何事だ?」

 ばあやが椅子から立ち上がる。クロード翁は深くため息をつき、新聞を畳んだ。

「……もう来おったか」


 数瞬後、広間の扉が勢いよく開かれた。朝の光を背に、黒衣の長身が立つ。


「やはりここにいたな」


 冷たく燃える青い瞳。アレクサンドル・ド・ラ・フォント――黒太子が、リオネルと近衛兵を従えて立っていた。


 シャルローヌは思わず息を呑む。王子は長躯を一歩踏み出し、広間にその影を落とした。


「王妃派に先を越されずに済んだ。……だが、これ以上ここに置いてはおけぬ」

 鋭い声が広間を満たす。


「なんで、ここだってばれたんだ」とカイル。

「そういえばわたし、逃げている途中にあちこちで、クロード・マルシャン商会が弁償しますって言ったかも」とシャルローヌ。

「おまえか!」

「……ごめん」


 アレクサンドルは、またも仲睦まじく見える二人に声がきつくなる。

「シャルローヌ。俺の監視下に入れ。これは命令だ――」


 橙の瞳が一瞬揺らぎ、迷いを映す。


「命令であるのと同時に……お前を守るためでもある」


 静寂。朝の光が指輪の宝石をきらりと照らし、シャルローヌが口を開く。


「監視下に入るとはつまりどういうことですか?ずっと見張られる?何かしたら罰せられる?」

 リオネルがため息を堪えて言う。

「畏れ多くも王子殿下は、姫君はじめ其方らを庇護下に置き、それを知らしめることで安全を守ると仰せである」

「え。ほんとう?監視下ってそう言う意味!?」

 シャルローヌの疑問にアレクサンドルは「だからそう言っている」と冷たく言い放つのみ。

 

 (わかんないよそんなの!守ってくれるの?なんでそれを監視って言うんだろ?もっとわかりやすく言ってくれないと!)

 シャルローヌにしては珍しく、心の声をそのまま表には出さずに答える。


「わかりました。アレックス」


 一瞬、黒太子の頬に場違いな赤みがさした。リオネルが思わず笑いをかみ殺す。

 アレクサンドルはすぐに咳払いし、冷徹な表情を取り戻した。


「では決まりだ。今日のうちに宮廷へ参内する」

 命じる声は固いが、耳の赤みだけが隠しきれず残っていた。


 ◇

 

 クロード邸の客間。侍女たちの手で、シャルローヌはゆっくりと支度を整えられていた。クロード翁が用意してくれた艶やかな青のドレスが肩から裾へと流れ、髪も丁寧に結い上げられる。鏡に映る姿は昨日までの剣士の面影を薄くし、すっかり「姫」としての気配を纏っていた。

 (なんでもあるね、マルシャン商会)


「まるで……別人ですわ、姫様」

 ばあやが感極まったように声を震わせる。

「え、そうかな……動きにくくて仕方ないんだけど」

 シャルローヌは裾をつまみ、ぎこちなく腰をひねった。


 そのとき、廊下から低い声が聞こえてきた。


「……支度はまだか」


 リオネルがすぐ外でため息をつき、小声でぼやく。


「殿下、執務もせずにずっと廊下で待ってるのはなんというか……女性の支度は長いものですよ」


 (監視下ってことね、やっぱり。はいはい)

 シャルローヌは思わず肩をすくめ、ばあやと視線を交わす。やがて侍女が扉を開け放った。入ってきたアレクサンドルのコバルトブルーの瞳が、一瞬見開かれる。視線が、青いドレス姿のシャルローヌに吸い寄せられた。


「……っ」


 言葉にならない。後ろからリオネルが口を挟む。


「青がよく似合いますよね、殿下の瞳の色だ」


 アレクサンドルはわざとらしく咳払いをひとつして仏頂面を作った。



 クロード邸の門前には、黒と金の国旗が高々と掲げられていた。双頭のグリフォンが織り出されたその旗は、ヴァレンシエール王国の威光を示す。朝の風に大きくはためくたび、通りに集まった人々が息を呑んだ。馬車の前に並ぶのは、近衛の騎士たち。甲冑は黒鉄に金の縁取り。行列の先頭では二頭立ての軍馬がいななき、地を震わせていた。

 

 シャルローヌが驚く。

 (いつのまにこんな大げさなことに」


 アレクサンドルは漆黒の外套を肩に掛け、涼やかな視線を正面に向ける。その背後にリオネル、そして不自然に緊張した面持ちで立つのがカイルだった。


「なぜおまえもついてくる」

 アレクサンドルの冷たい声に、カイルは胃のあたりを押さえて引きつった笑みを浮かべる。

「そ、そうですよね! ここで残って留守番でも……」


「カイル殿」

 すかさずばあやが目尻を潤ませる。


「一緒に参りましょう。姫様をお守りできるのは、あなたしかおりませんのに」

「え、俺しか? いや、でも……!」


 カイルの視線がばあやとシャルローヌの間を右往左往する。懐からちらりと胃薬を取り出し、見て、ため息をつき、結局腰にしまい込んだ。

「……行きますよ! 俺だって、シャルの相棒ですから!」


 シャルローヌは肩を揺らして笑い、アレクサンドルは目を細めて彼を一瞥しただけで、無言で前を向いた。


 行列が石畳の大通りに繰り出すと、群衆のざわめきは一気に膨れ上がった。


「黒太子殿下だ!」

「旗を見ろ、双頭のグリフォンが翻っている!」

「隣にいるのは……誰だ? 金髪の美しい娘……いや、剣士か?」


 シャルローヌは馬車に乗せられ、青いドレスの裾を整えて座っていた。窓の外から向けられる熱い視線に、思わず背筋を伸ばす。橙の瞳が群衆と交わると、あちこちで歓声が弾けた。


「なんて綺麗な瞳……」

「まさか噂の“金髪の剣士”じゃないか?」

「いや、姫君のように見える……」


 民衆の間でひそひそ声が飛び交う。


 玉座の間へと続く最後の大通り。石造りの門楼の上から、再び黒と金の旗が翻る。アレクサンドルは無表情を保っていたが、シャルローヌの隣に並ぶと、ほんの一瞬だけ橙の瞳を見やり、目元を和らげた。その瞬間、再びあちこちで悲鳴やため息が響き渡る。


「黒太子殿下、微笑んでおられる……?」

「まさか、“黒太子微笑記念日”がもう一度来るのか?」


 群衆の喧騒が続くなか、一行は王宮へ到着した。


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