11.黒太子微笑記念日

 「いたぞ! 捕らえろ! 」

「あの金髪だ! 」


 甲冑が鳴って、大通りに兵が雪崩れ込んできた。


 シャルローヌはさっと身をかがめ、警戒態勢になる。

(この兵たちはいったい何?こんなに人通りの多いところで剣を振って)


 リオネルは長剣を半歩で抜き、周囲の動線を瞬時に見切る。

「ちっ。王妃派か。耳が早いな。殿下、ここで騒げば余計拗れる。戻るぞ」


 カイルは即座にばあやを背負った。

「しっかり掴まってて!」

「腰なら若い頃から丈夫ですとも!」ばあやは元気よく答えた。


(狙いは、わたし? でも捕まるわけにはいかない。カイル、ばあやはまかせた!)


 シャルローヌは迫る兵の肩を軽やかに足場にして、路地の庇へと跳んだ。石壁に掌、足、掌、足――しなやかに駆け上がり、屋根へ身を翻す。


 陽光が金髪を弾く。両腕を高く、伸びる軌跡は、戦闘というより舞。

 アレクサンドルには、ただの跳躍が“天使の舞”に見えた。


(――綺麗だ)


 胸が焼けるみたいに熱い。自分の呼吸が乱れていることに、本人だけが気づいていない。

「アレックス、急げ!」リオネルが腕を引く。「ここで兵たちともめたら、王妃派の思うつぼだ」

「……わかっている」


 アレクサンドルは名残惜しそうに視線を屋根の端へ残し、足を返した。


 兵の突進が始まると、シャルローヌは屋根から反転し、逆手に持った短剣で縄を切り落とした。ばさっと布幕が落ち、追手がもつれる。

「す、すみません!」商人にぺこぺこ頭を下げながら飛び越える。

「お、お代は……!」「あとで必ず!」本当に払えるのかは、クロード翁次第。


 干し魚の屋台の上をするすると渡れば、乾いた鱗が靴裏で鳴った。

「滑る、滑る!」などと言いながらバランスは完璧だ。


 カイルはばあやを背負って疾走しつつも、横合いから飛び出た槍を鞘で弾いた。

「どきな!」

「まあ頼もしいこと!」ばあやは誇らしげ。


 角を曲がった先で、兵が路を塞いだ。シャルローヌは一瞬で間合いを測ると、手近な木箱へトンと足をかけ、兵の兜に手を置いてもう一段ジャンプ。肩越しにひらりと抜ける。

「なんでそんなに軽い!?」追手の悲鳴が背中に飛んだ。


 屋根伝いに駆けるシャルローヌの後ろで、ビジュが「ピルルッ」と鳴く。兵は下から追うしかない。数人が梯子をかけてきたが、その梯子をカイルが通りざまに蹴り倒した。

「ごめん、通りまーす!」

「うわっ、誰だ!」兵が崩れ落ち、軒先の壺が割れる。

「弁償代はクロード・マルシャン商会に請求してください!」とシャルローヌ。そんな余裕どこから。


「姫様、右です、右!」

「シャル!」


 ばあやとカイルの合いの手が挟まる。三人の息は妙によく合っていた。


 路地を曲がるたび屋台の匂いが変わる。焼き魚、ハーブパン、蜂蜜酒。シャルローヌのおなかが鳴る。

「……戻ったら、なんか食べよっか」

「賛成!」三人同時にうなずく場合か。


 やっとの思いで小さな倉庫に滑り込み、息を整えた。

「はぁ……ふぅ……」


 シャルローヌは壁に手をつき、胸の熱を押さえ込む。

(魔力、また上がってる。早く魔道具が要る)


「大丈夫ですか、姫……シャル」ばあやが額を拭いた。

「平気。考えるのは苦手。危なくなったら動く、それだけ」


 カイルが気まずそうに頭をかいた。

「さっきの二人、まじで黒太子とその近衛だよな?」

「うん。……でも、なんか、思ってたより怖くなかった。黒太子っていうより、アレックスって感じ」

「おい、あの黒いもやもやはやばいって」


「たしかに……でもそれより」シャルローヌは真顔に戻る。

「黒太子がいたのに別の兵たちが“剣士と青い鳥”を狙ってた。私の正体までは気づいてないみたいだけど、どっちかにまたみつかるのは時間の問題だね」


「クロード翁のところへ急ぎましょう」ばあやが決意の眼をした。「魔道具を、早く」


 ◇


 王城の回廊は静かだった。アレクサンドルは長い息を吐くと、執務室の扉を押し開ける。窓の外、夕陽が塔の縁を金に染めている。


「こちらに負けず劣らず耳が早いな、王妃派も」リオネルが事務的に報告を始めた。「“金髪の若い剣士と青い鳥”で網を張っていたらしい。姫様と断定はしていないが、いずれ辿り着く」


「あの跳躍は……」アレクサンドルは無意識に言葉を漏らす。「空を飛ぶのかと思った」


「見とれていたな。心を射抜かれたか」


「違う」


 秒で否定。


「でも目は完全に恋する男の目だったけどな」


「違う。あれはこの世界に必要不可欠な存在だ。国のため、世界のため、存在しなくてはならない。生きていて当然だ。俺の感情がどうのこうのではない」


 リオネルは心の中で天を仰ぐ。

(また言ってる……)


 しばし沈黙。塔の鐘が遠くで鳴る。アレクサンドルは窓辺へ歩き、燃えるような夕焼けを見た。

「橙の光を失った世界には意味がない……だから必ず探し出す」


(“意味がない”って……自分のそばにいないと意味がない、の言い換えだろ)

 さすがに口には出さない。親友の名誉と機嫌のために。


 報告はまだ続く。

「王妃派の中に、異国の金髪剣士を探せと触れを回している者がいます。噂が独り歩きしている」


「余計な尾ひれだな。金髪、剣、青い鳥――それ以上の情報は出すな。あの子の安全が最優先だ」


 リオネルが片眉を上げる。

「……“あの子”って言ったぞ?」


 アレクサンドルはさらっと返す。

「事実だ」


「はいはい。事実ねぇ。お前がそんな呼び方するの、初めて聞いたがな」


「……必要だから言っただけだ」


「ふーん(ぜんっぜん自覚ねえな、こいつ)」


 夜になると、書類は山になった。アレクサンドルは羽根ペンを走らせる。視線は紙面にあっても、脳裏にはさっきの“舞”が焼き付いていた。

(生きていた。生きていた。生きていた。)


 頬が、ほんの僅かにゆるむ。


 その瞬間、侍女が「ひっ……!」と声にならない悲鳴を上げてトレーを落とし、文官が「……美しい……」と机に突っ伏し、若侍従が天を仰いで倒れそうになった。


「何をしている?」当の本人はいぶかしげに首をかしげるばかり。


 外廊下を通りかかった書記官や女官たちがざわめいた。

「見た?黒太子殿下、微笑んでいらした」

「今日死んでもいい」

「待って、気絶するの早い」


「殿下」リオネルが呆れ半分で近づく。「執務中に周囲を焼かないでくれ」


「何の話だ」


「顔だ。表情だ」


「……職務の妨げになるような表情はしていない」


「無自覚か!」


 侍女がトレーを拾って立ち上がり、胸に手を当てて深呼吸。

「大変失礼しました。殿下があまりに……」


 言いかけた声を手で制し、アレクサンドルが優しい声で静かにほほえんだ。

「よい。気にするな。みなも今日は良い日であれ」


「……尊くて」


 撃沈第二波。またしても落下するトレー。


 その直後、別室から「インクがぁぁ!」という悲鳴。誰かが感極まってインク壺を落としたらしい。床に黒い湖が広がる。


「避難勧告を出すか」リオネルが渋い顔をした。「“殿下がご機嫌のときは直視禁止”」


「馬鹿を言うな」


「じゃあ今日を『黒太子微笑記念日』にでもするか」


「そんな記念日は要らん」


 アレクサンドルは小さく咳払いして表情を引き締めた――つもりだったが、口元のかすかな弧は消えきらない。

(生きていた)


 窓の外では王都の灯が一つ、また一つと灯っていく。


 ◇


 同じ頃、倉庫の暗がりで三人は地図を広げていた。


「ここの裏通りから抜ければ商会の裏門に出られるはずです」ばあやが指でなぞる。「姫様の魔力は限界に近い。休める場所へ」


「うん。大丈夫。動いてる方が、落ち着く」


 ばあやは二人の横顔を見回し、胸の奥でそっと呟く。

(もし首飾りが戻れば、魔道具を手に入れ、姫様の力を安定させられるやもしれません。けれど――殿下の手にある今は、まだ言えませんね。お二人の歩みが整ってからでよろしい)


 古い骨も、若者に負けぬほど軽く感じる。守りたい背中が、二つもあるのだから。


 外から伝わる王都の夜のざわめきが、次の幕を急かすように高まっていく。


 倉庫の外で物音がした。三人が身じろぎすると、扉の隙間から細い影がするり。

「ひゃっ!す、すみません!クロード商会の小使いです!路地でさっきの跳び方を見て……いや違う、翁に“似た人がいたら声をかけろ”と言われてて!」


「クロード翁の使い?」カイルとばあやが顔を見合わせる。


 少年はこくこくとうなずいた。「裏門を開けます。こっちです、急いで!」


 視線を交わし、三人は頷いた。


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