10.まさかの黒太子

 王都の石門をくぐった瞬間、三人は人の波に飲み込まれた。行商人の呼び声、焼き菓子と香草の匂い、馬車の軋む音、吟遊詩人の弦。


 石門の上には、黒と金の旗が風にはためいている。双頭のグリフォンが翼を広げる国章――ヴァレンシエール王国の象徴だ。陽光を受けて輝くその姿は、威厳と繁栄を誇示するようで、通る者すべてに「ここが大国の都である」と告げていた。


 男装のシャルローヌは深く帽子をかぶり、肩の小鳥を外套の影に隠す。

 (ここが王都。……落ち着け、わたし。まずは魔道具、それから身を潜める。黒太子のところへ連れていかれるルートは全力回避しなくちゃね)

 胸の熱は相変わらず渦を巻く。魔力の高鳴りなのか、緊張なのか、自分でも判別不能だ。


 「帽子をもう少し下げてくださいな」ばあやがそっと手を添える。

 「そうだな。ビジュもなるべく隠れていてくれ」カイルが外套の隙間を指で作る。ビジュは「ピル」と一声だけ返し、大人しく影に潜った。たぶん、潜ってる“つもり”。


 石造りの建物は背を競い、窓辺には赤や黄色の花。角を回れば大道芸、次は聖歌隊、さらに先では値切り合いの絶叫が上がる。「三枚で一枚おまけ!」「そのおまけが欲しいんじゃない!」――王都は音で満ちていた。


 道端の噂好きがひそひそ囁く。

 「見た? 今の金髪の人、なんかかっこよくなかった?」

 「噂の金髪剣士だったりして」

 「しかもあの子、鳥を連れてる」

 「青い鳥かわいい」


 「姫様、歩幅を無理なさらずに。石畳は足を取ります」

 「姫様じゃなくてシャル、です」とシャルローヌ。

 「はいはい、姫様――いえ、シャル様」

 ばあやは結局どっちも言う。カイルは笑いを堪えながら周囲へ視線を走らせた。


 「とりあえずクロード翁の商会に向かおう。魔道具の目星もそこで」

 「うん。目立たないようにね」


 そう言った矢先、カイルの目は驚愕に見開かれる。

 人波の向こう、黒髪の青年と明るい茶髪の青年がまっすぐこちらへ向かって速足で歩いてくる。黒髪の方は、真昼でも夜を連れているみたいな気配。すれ違った淑女の何人かが、手を胸に当てて立ち尽くす。その顔をカイルは知っている。


 (おいおいおい! 待て! よりによって大通りのど真ん中で黒太子!? )


 身を翻そうとした矢先に、黒太子アレクサンドルの青い瞳がこちらを捕らえた。

 視線が交わる。

 カイルの胃がギューッと音を立てる。

 

 アレクサンドルの目が、シャルローヌを捉えた。

 その橙の瞳がまっすぐに返す。

 青と橙――ふたつの色が空気の中で弾けたように見えた。


 時間が、止まった。

 広場のざわめきが遠ざかる。

 世界に残るのは、ふたりの呼吸だけ。


 スローモーションのように、同時に指が上がった。

 そして、重なる声。


 「――生きていた!!! 」


 「……は?」

 「……は?」

 眉を寄せるタイミングまで一致。


 (いや「は?」と言いたいのはこっちだ!)

 ビスケット色の髪の青年――リオネルが目を瞬き、ぽかんと口を開けて固まる。


 「ええと……なんの話ですか?」

 先に我に返ったのはシャルローヌだ。

 

 「嵐で船が難破したと聞いた。やはり、生きていたんだな……」

 低く抑えた声。

 街の喧騒が、一瞬で溶けて消えた気がした。


 青の瞳の底で光が揺れる。安堵と、混乱と、怒りと――説明できない感情が複雑に交じる。


 「あ、はい。おかげさまで」

 (しまった! つい答えちゃった! ここは“関係ありません”ムーブの場面!)


 「で……俺が“生きていた”とは、どういう意味だ?」

 射抜くような視線。理性の色をした青。だがその奥に、恐怖にも似た熱がある。


 シャルローヌは反射で口を開く。

 「それはですね、王子が――」


 「待て」

 アレクサンドルが食い気味に遮った。「お忍び中だ。王子と呼ぶな」


 「では、なんと?」

 「アレックスでお願いします!」と横からリオネルが即答。


 「はい、アレックス」


 唐突な愛称に、アレクサンドルの呼吸が一瞬止まる。その音のない空白が、自分の胸の奥で爆ぜた。

 耳の奥で心臓の音がうるさい。もはや行軍ファンファーレ。

 (な、なぜだ。名前を呼ばれただけで鼓動が制御不能……)


 「な、なんだ?」

 声が裏返り、リオネルが吹き出しそうになる。


 「アレックスが幼いころ川に落ちたとき、わたしが助けたんですよ。そのあとどうなったかなって気になっていて。生きていてよかったー。わたし、死んだ甲斐がありました」

 にこにこ。


 ――空気が、凍る。

 

 (シャルローヌ……何を言っている? 嵐で頭を打ったのか?)


 理性が全力で危険信号を出すのに、心が勝手に動く。この無防備な笑顔が、懐かしくて仕方がない。

 記憶の底から、あの日の金色の光が蘇る。血に染まった青い羽。涙の輝き。あの奇跡の午後。


 ――生きていた。

 本当に。


 思考が熱に溶けていく。


 それを見透かすように、ばあやがカイルの後ろに隠れるようにしながら必死に言う。

「この場はカイル殿がなんとかしてくださいませっ。姫様はなにかその……勘違いをなさってるのです」


(まじ?俺?俺?俺かよー)

 カイルが半泣きで前に出た。

 「こくたい……いえ、でんか……ち、違、ア、ア、アレックス!」

 裏返った声で叫ぶ。

 「こいつ、ちょっと勘違いしてるんです! 本物だってわかってなくて、別の話をごちゃまぜに……!」


 「……おまえは何者だ。なぜ隣に並び立っている」


 その声は氷のように冷たかった。

 広場の空気が一気に張り詰め、カイルは固まる。黒太子の威圧――魔力の圧が、空気ごと押し潰してくる。


 (やばい。なに、この黒いもやもや。胃薬……誰か胃薬……)

 汗が背を伝う。

 

 耐えかねて、カイルはシャルローヌの耳に囁いた。

 「この人が黒太子だ! 会いたくないんだろ? 逃げるぞ!」


 「ええっ!?なに、どういうこと!?」

 驚愕に目を丸くするシャルローヌ。

 「俺が聞きたい!」とカイル。

 二人の顔が近すぎて、アレクサンドルの胸がズキンと軋む。

 (……なぜ。なぜこんなに苦しい?)


 ――距離が近い。

 理性が、溶けていく。


 (駄目だ。感情を制御しろ。王は、情に呑まれてはならぬ――!)


 青い瞳が一瞬だけ揺らぐ。

 その震えを、リオネルは見逃さなかった。

 

 「殿下!」彼が肩を掴む。

 「これ以上、魔力を漏らしませんように。威圧で姫が傷つく! 」


 「ぐ……」

 アレクサンドルは歯を食いしばる。

 しかし抑えきれない。胸の内に溢れるものが、理屈では止められない。

 (あの少女が、生きて……目の前にいる)


 橙の瞳が光を映す。胸の奥で、鎖が軋むように鳴った。


 シャルローヌの脳裏をよぎっていたのは最悪の想像。

 (このままじゃ、クロード翁に辿り着く前に、この黒もやもやを出す黒太子に身柄確保コース。だめ、それはだめ)


 そのとき、ピーッという呼子の音が空を切った。


 「いたぞ! 捕らえろ!」


 甲冑の音。兵が大通りに雪崩れ込む。

 緊張の糸が弾け、シャルローヌが一歩下がる。彼女の肩に、青い鳥がふわりと舞い降りた。


 アレクサンドルの胸の鼓動が、再び暴れ出す。

 (あの鳥まで――まるで、運命が揶揄っている)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る