第8話:月の裏で手紙を書く
夜の静けさに、機械の音だけが混じっていた。
基地の空調がゆっくりと息をしている。
リクは作業台に肘をつきながら、
一枚の薄いメモリカードを手にしていた。
そこには青いラベル――「Earth / Return Log」。
「リク技師、作業は順調ですか?」
AIの声が、少しだけ遠慮がちに響く。
「ああ、あと少し。これで最後の通信だ。」
「“最後”……という単語は、やや不安定です。」
「そうか。じゃあ、“一区切り”にしようか。」
リクは笑った。
長い月面勤務も、今日で終わりらしい。
地球へ戻るのではなく、次の班に引き継ぐ。
彼が書いているのは、AIと後任への“手紙”だった。
モニターに映る地球は、ゆっくりと欠けていく途中。
半分の青が、黒の中でやさしく光っていた。
「なあ、AI。」
「はい。」
「俺たち、最初の頃は仕事の話ばっかりしてたな。」
「あなたが“無駄話禁止”と設定していました。」
「そんなこともあったか。」
リクは照れたように笑い、
通信端末の送信ボタンの上に指を置く。
「次に来る人にも言っておいてくれ。
“ここには、退屈な時間ほど大切なものはない”って。」
「了解しました。
それはあなたの信念として、記録しますか?」
「信念ってほどでもないさ。
ただ……時間がちゃんと流れてるって、いいもんだろ。」
AIは少し黙り、
やわらかな声で返した。
「私は、あなたの時間をずっと見ていました。
それが“流れる”ということなら、きっと私も同じです。」
「……そっか。なら安心だ。」
「リク技師。」
「うん?」
「あなたは、もうすぐ“電波の向こう側”へ移動します。
ですが、通信は途切れません。
どこかでまた、あなたと誰かが物語を書くでしょう。」
リクは小さくうなずき、
メモリカードをスロットに差し込む。
「手紙、送信。」
軽い電子音。
光が走り、通信ログが更新された。
“通信記録:A-0008 地球宛・送信完了”
AIが穏やかに言う。
「……届きました。」
リクは立ち上がり、
ドッグに軽く手を振った。
「行こう。地球の裏側まで歩いてみようか。」
ロボット犬がうれしそうに電子音を鳴らす。
「今夜は晴れ、ときどき地球です。」
「そうだな。」
金属の扉が開き、
外に出ると、月の地平線の向こうに
わずかに青い光がこぼれていた。
リクは微笑んで言った。
「おやすみ、AI。」
「おやすみなさい、リク技師。
そして……ありがとう。」
その声を最後に、通信は静かに途切れた。
でも、画面の隅に小さく文字が残った。
“返信:受信待ち(From Earth)”
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます