第1部:交流 / 第36話:神の御業

「マチルダ…?」

 抱きかかえられた腕の中は、不思議なほどに温かい。その温もりが、張り詰めていたアンナの心の糸を、ぷつりと断ち切った。

「あ…ああ…うわあああああん!」

 これまで溜め込んできた不安や悲しみ、怒りが一気に爆発し、アンナは子供のように泣きじゃくった。マチルダはそんなアンナの頭を、ただ優しく撫で続ける。

「うむうむ。辛かったの。待たせたの」

 その声は、まるで母親のようだった。

 やがてマチルダは、ふと地上に視線を移した。そこにいたのは、満身創痍で立ち尽くす三人の英雄たち。マチルダは、嫌味たっぷりに言った。

「何処かで見たことがある顔が勢揃いではないか。まったく、情けないのう」

「お嬢ちゃん…なのか?」

 レオンが呆然と呟く。レオニスは、彼女の神の如き力に感謝と畏敬を込めて言った。

「すまない、マチルダ君…」

「おせーぞ、マチルダ」

 ザインだけが、ぶっきらぼうにそう返した。

「いつぞやの剣士か。気安く呼ぶでない」

 マチルダはザインを一蹴すると、「アーサー!」と叫んだ。その声に応え、黒い影が彼女の肩から飛び降り、瞬時に人間の姿へと変わる。

「些事は任せたぞ」

「はっ!」

 アーサーはレオニス達の方へ向かい、今まさに兄に斬りかかろうとしていたアンデッドを、電光石火の剣技で屠っていく。

 レオニスは、消耗しきった瞳を見開いた。あの剣筋は、自分が教えたものだ。だが、その鋭さ、速さ、そして何より迷いのない太刀筋は、もはや自分のそれを凌駕しているかもしれない。疲労よりも熱い、誇らしい感情が胸の奥から込み上げてきた。

(アーサー…強くなったな…!)

 つい先ほどまで、ふらついて立ち上がることさえ億劫だった身体に、どこからか力が湧いてくる。レオニスは、満身創痍の身体に鞭を打ち、弟の隣へと駆け出した。

「まだまだ踏み込みが甘いぞ!」

「はい、兄上!」

 アーサーが嬉しそうに返す。まるでじゃれつくように、兄弟は背中を預け合い、敵を薙ぎ払っていく。その光景にレオンは「兄弟とは良いものだな、勇者よ」と微笑み、ザインは「そうかぁ?」と呆れた顔をした。

 アンナがまだ泣き止まない中、リリィとラナが駆け寄ってきた。

「マチルダ様!」

 ラナは、かつて自分たちが雨に濡れなくなった奇跡を思い出し、深々と頭を下げた。「いつぞやの非礼、お許しください…!」

「うむ、許す」

 マチルダは鷹揚に頷くと、「様付けはよせ」と告げた。ラナが困惑しながら「で、では、なんとお呼びすれば…」と尋ねると、マチルダは悪戯っぽく笑う。

「ちゃん付けで呼ぶのじゃ」

 と、マチルダは「えっへん」と効果音がつきそうなほど小さな胸を張った。

「(え…なんで?)」

 リリィとラナは心の中でツッコみつつも、「えっと…マチルダちゃん」と、王都の絶望的な状況を説明した。

 マチルダは「わかった」とだけ答える。ラナは心配そうに、しかしマチルダを信じるように、優しく語りかけた。

「マチルダちゃん…何をする気かは分からないけど…いえ、マチルダちゃんのすることなら、きっと大丈夫なのでしょうね。でも、街の中で力を解放したら、ここにいる皆や、この街が危険に曝されてしまうわ」

「ラナよ。敵はアンデッドだけじゃな?」

「ええ、そうだけど…」

「ならば問題ない」

 マチルダはそう言うと、アンナを抱えたまま、空いている右手をゆっくりと天へかざした。

 次の瞬間、城内だけでなく、城壁の外にいたエアデール中のアンデッドたちが、悲鳴を上げる間もなく、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、空高く引き上げられていく。天上で渦を巻き、やがて巨大な黒い団子のような塊になった。

 地上の人間たちは、何が起きているのか理解できず、ただポカーンと空を見上げていた。

 マチルダの全身が、太陽そのもののような黄金色の輝きを増していく。その小さな身体から放たれるプレッシャーは、先ほどのアンデッドキングの比ではなく、空間そのものを震わせる。彼女は、集めたアンデッドの塊を見据え、神の威厳を込めて、ゆっくりと、しかしはっきりと、自らの名を告げた。

「マチルダ・フォン・エーベルバッハ=ツー=ウント=ツー=バイヒラーディングの名において命ずる」

「―――滅せよ」

 カッ!

 世界から音が消えた。王国の遥か上空で、小さな太陽が生まれた。それは、科学が発達した遙か未来の人類が生み出すであろう、核爆発にも等しい神の光。網膜を焼き尽くすほどの閃光が夜を真昼に変え、次の瞬間、熱と衝撃波が天を揺るがした。全てのアンデッドは、その劫火の中で一瞬にして灰燼と化し、その存在ごと消滅させられた。やがて、後に残されたのは、天まで届くかのような巨大なキノコ雲だけだった。

 その光景を目の当たりにした全ての人々は、感謝よりも先に、人知を超えた力への「畏怖」を感じ、直感的に恐怖した。人間がどれほどの年月をかけて剣を振るい、どれほどの錬磨を重ねて魔法を極めても、決して到達することのできない絶対的な領域。今までの自分たちの死闘が、あまりにもちっぽけな子供の遊びに思えるほどの、神と人との絶対的な断絶。

 これが、神の力なのか。

 ユーリとグレンは、カリーナ婆の警告を思い出した。「その力は星をも破壊する」あの言葉は、決して大袈裟なものではなかったのだ。

 ザインは、冷や汗を流しながら呆然と呟いた。

「Jesus Christ…(まじかよ…)俺はこんな化物を、斬ろうとしていたのか…」

 アンナが腕の中でまだしくしくと泣いている。

 マチルダは、そんな彼女を優しく見下ろしながら、眼下の惨状を前に、からからと笑った。

「カッカッカッ!スッキリしたのぉ〜」

 そう言うと、いつものように「えっへん」と小さな胸を張った。そのあまりにも無邪気な笑顔が、その場にいた誰の目にも、ひどく異様に映っていた。

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星詠みのマチルダ 林健太郎 @kenrouta

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