第1部:交流 / 第32話:じじい、久しいの

 地上の時間がどれほど流れたのか。マチルダたちにとっては、それは瞬きの間にも、永遠にも感じられた。

 エアデールやグリムロックの国土を遥か北に越えた、極北の大地。そこは、人間が決して足を踏み入れることのない、神域へと続く道だった。

「…空気が違う」

 アーサーが、カラスの姿のままマチルダの肩の上で呟いた。

 大気は澄み切り、吸い込むと肺が清められるかのような神聖な気に満ちている。しかし、その神聖さは、同時に異質なプレッシャーとなって肌を刺した。

 やがて一行の前方に、天を貫く巨大な山――『天の柱 (The Pillar of Heaven)』が姿を現した。

 そこからの道程は、もはや「登山」という言葉では生ぬるい、神々への挑戦そのものだった。切り立った崖には道などなく、マチルダが念じるままに足場が生み出され、三人は重力を無視して天を目指す。

 山の中腹には、見たこともない姿形の魔獣たちが巣食っている。大地を揺るがす多頭の獣、空を覆うほどの翼を持つ巨鳥。そのどれもが、地上の冒険者ギルドが束になっても敵わないであろう、神話級の存在だった。

 だが、魔獣たちはマチルダの姿を認めると、まるで王の行幸に道を譲るかのように、あるいは本能的な恐怖に身を竦ませるかのように、静かにこうべを垂れ、決して一行に近づこうとはしなかった。

「キュイ…」

 チャチャでさえ、その異様な光景にはしゃぐのを忘れ、マチルダのマントにぎゅっとしがみついている。

 永いとも思える上昇の果て、一行はついに山の頂付近に到達した。そこは雲よりも高く、空は宇宙の闇を映して星々が輝いている。そして、その山頂に、神界への入り口である『天の門』がそびえ立っていた。

「…これが…」

 アーサーは言葉を失った。

 見上げる者の首が痛くなるほどに巨大で、その全貌は視界に収まりきらない。一枚岩から削り出したかのような巨大な門。表面には、星々の運行を示す幾何学模様が刻まれ、それ自体が宇宙の法則と連動しているかのように、淡い光を放っている。人間では決して開けられない、絶対的な存在感だった。

「マチルダ様、どうやって…?」

「神界は本来、肉体を持ったままでは入れぬ。神とは愛そのものじゃからな」

 マチルダはアーサーの言葉を引き継ぐと、不敵に笑った。

「じゃが、ワシらは例外じゃ」

 彼女は門の中心に進み出ると、厳かに、しかしはっきりと、自身の長大な本名を告げた。

「―――マチルダ・フォン・エーベルバッハ=ツー=ウント=ツー=バイヒラーディングじゃ!門を開けよ!」

 その名を鍵とするように、巨大な門が、世界が生まれる前の静寂の中で、ゆっくりと内側へ開いていく。門の向こうからは、目が眩むほどの純粋な光が溢れ出した。

 アーサーとチャチャは、そのあまりに神々しく、常識を超えた光景に、ただ口をあんぐりと開けた。

 門をくぐると、そこは完璧な世界だった。

 色とりどりの花が咲き乱れ、宝石のように輝く鳥たちが空を舞い、見たこともないような美しい絶景がどこまでも続いている。

 しかし、アーサーはすぐにその世界の異常さに気づいた。一切の「音」が存在しないのだ。鳥のさえずりも、風の音も、自分たちの足音すら聞こえない。完璧すぎるが故の、完全な静寂。

「相変わらず辛気臭い場所じゃのう」

 マチルダが呟く。

 しばらく進むと、地面に巨大な魔法陣が描かれていた。三人がそれに乗ると、光の壁に覆われた「空間エレベーター」が作動し、宇宙空間を駆け上がるように上昇していく。

 エレベーターが到着した先は、上下左右の感覚もない、どこまでも続く巨大な真っ白の空間だった。

 そのだだっ広い空間の真ん中に、ポツンと一つだけ、この世のものとは思えないほど豪華なソファとテーブルが置かれている。

 そして、その中央のソファを取り囲むように、無数のエネルギー体――神の尖兵や神官、格下の神々が静かに浮かび、成り行きを見守っていた。

 ソファの近くには、ひときわ強い光を放つ神々の気配がある。万物の終わりと始まりを司る【破壊と再生】のオルドレイク。運命の糸を観測する【運命】のアストラーデ。物質に形を与える【鍛冶と創造】のボルガン。そして、宇宙の秩序と時の流れを司る【時間】のセレフィナなど、この星の各地帯を管理する最高位の神々だ。

 マチルダは、オルドレイクに向かって、悪態をつくように言った。

「じじい、久しいの」

 その言葉を、雷鳴のような威厳を込めた声が遮る。

「口を慎め、マチルダ」

 一触即発の空気が、完璧な静寂の世界に、初めて不協和音を響かせた。

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