序章 / 第7話:アンナの賭け

 湖畔の空気は、マチルダが放つ絶対的な威圧によって氷のように冷え切っていた。

 フィオナは恐怖で凍りつき、チャチャも怯えてアンナの後ろに隠れている。親友と、新しくできた不思議な友人。その間で、アンナはどうすることもできずに立ち尽くしていた。

 しかし、フィオナの震える肩を見て、アンナは意を決する。

 彼女は、恐怖で固まるフィオナの前に両手を広げて立ちはだかった。親友を守るように、しかしマチルダに対しては敵意なく、まっすぐにその瞳を見つめ返す。

「マチルダ、この子はフィオナ。わたしの、一番大切な友達なの。…だから、怖がらせないであげて」

 その言葉に、マチルダの冷たい眼差しがほんの少しだけ揺らいだ。彼女はアンナとフィオナを無言で見比べ、アーサーは固唾を飲んでその様子を見守っている。

 このままでは埒が明かない。そう判断したアンナは、誰もが予想しない提案を、わざと明るい声で口にした。

「そうだ、マチルダ! アーサーも、チャチャも! みんなで、わたしたちの街に行かない?」

「ひっ…!?」

 アンナの背後で、フィオナが小さな悲鳴を上げる。信じられない、という表情でアンナの服の裾を掴んだ。

 アンナは構わず、マチルダに向かって続ける。

「お父さんやお母さんにも、マチルダを紹介したいし! それに、街にはシチュー以外にも、もっともっと美味しいものが、いーっぱいあるんだよ!」

 マチルダの眉がぴくりと動いた。「美味しいもの」という言葉に、彼女の興味が引かれたのをアンナは見逃さなかった。

 マチルダは興味なさそうな顔を装いつつも、尋ねずにはいられない。

「…ほう。そのシチューとかいう汁より美味いものがあると? それはどんなものじゃ」

「お菓子とか!甘くて、とっても美味しいの!クッキーとか、キャンディとか、ケーキとか!」

「…おかし? くっきぃ…? きゃんでぃ…? なんじゃ、それは?」

 マチルダが本気で首を傾げる。その言葉を聞いたチャチャが、何かを察知したようにアンナの足元で「キュッ!キュッキュッ!」と激しく鳴き、ぴょんぴょん跳ね始めた。

 膠着した空気の中、アーサーがマチルダの近くの枝に舞い降りた。

「マチルダ様。アンナ嬢の提案は、一考の価値があるかと存じます」

 彼は冷静に続ける。

「先ほどの襲撃者、そしてあの謎の男。この森はもはや安全とは言えません。ひとまず、アンナ嬢たちを街まで送り届け、状況を確かめるのが賢明かと」

 アーサーの論理的な進言。アンナのキラキラした期待の眼差し。そして、お菓子に興奮しているチャチャの激しいアピール。マチルダはそれらを順番に見ると、わざとらしく、今日一番の大きいため息をついた。

「…ああ、もう、面倒くさいのう! 分かった! 行けばいいんじゃろ、行けば! その『おかし』とやらが、どれほどのものか、このワシ自ら確かめてやろうではないか」

 マチルダはそう言うと、仕方なく許可してやったのだとでも言いたげに、小さな胸をぐっと張って「えっへん」と効果音がつきそうな態度を見せた。そのわがままな姫様のような振る舞いに、アンナは思わず笑みをこぼした。

 こうして、世にも奇妙な一行が、グリーンウィロウへ向かって歩き出すことになった。

 先頭を行くのは、嬉しそうなアンナ。その腕を掴み、腰が引けながらも「なんでこうなるの…」と呟きつつ付いていくしかない、半泣きのフィオナ。

 フィオナは、何度も何度も後ろを振り返り、マチルダの様子を怯えたように窺っていた。その視線に気づいたマチルダが、隣を飛ぶアーサーに、アンナには聞こえないよう小声でぼそりと話しかける。

「のうアーサー。あの小娘は、なぜあんなにこっちをチラチラ見ておるのじゃ。うっとうしいのう。…消してしまうか」

「駄目です!絶対に駄目ですマチルダ様!」

 アーサーが慌てて小声で制止する。

「そんなことをしたら、アンナ嬢に嫌われてしまいますよ!」

「…ふん。わかっておるわ、冗談じゃ、冗談」

 マチルダはつまらなそうに鼻を鳴らした。アーサーは心底ほっとしたように胸をなでおろす。

「マチルダ様の冗談は、冗談に聞こえないから怖いんですよ! まったく…」

 そんな小声のやり取りが交わされているとは露知らず、チャチャはアンナの肩の上で、未知のお菓子への期待に胸を膨らませ、「キュッキュッ」と楽しそうに鳴いていた。

 一行は、それぞれの思惑を胸に、森を抜けていく。

 彼らが向かう先、グリーンウィロウの入り口が、木々の向こうに小さく見え始めていた。

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