科学の果てより愛を込めて
檸檬
科学の果てより愛を込めて
三〇一五年。私はアドラー。感情摘出師だ。この世界は感情すら資源だ。喜びや悲しみは血や臓物よりも高値で売れる。通貨と何ら変わりない。息遣い、声色、ここではすべてが一定に整えられている。「嫉妬と少しの恐怖心を売りたい」そう言われると私は男の感情を測る機械へと視線を落とす。感情レベル六 これはそこそこの値が付くだろう。「わかりました。手術はまた一週間後」彼は人形のように頷き、去って行く。
いつも通りの灰色の日々。そんな中、一人の女性がやってきた。まっすぐと伸びた美しい黒髪に、整った顔立ち。だがその瞳の奥は、どこか哀愁を漂わせている。その女性はエリスと名乗った。彼女は私に向かって、「愛情を売らせてください」と言ってきた。「愛情?」私は思わず聞き返す。彼女はゆっくりと頷いた。「……高価ですね。でも、それだけ重要だということです」「私は学生時代、それを売りました。おかげで今は両親や級友の顔さえも思い出せません」暫しの沈黙の後、彼女はただ一言「それは好都合」とだけ答えた。私もまた機械的に「愛情の手術は念入りな準備が必要です。半年間の予備入院の後に手術を行います」とだけ告げた。
私はエリスとよく話した。その要因は手術担当が私であることも勿論、彼女との会話には私にとって多くの学びがあるからだ。普段は無口な彼女だが、哲学の話はその限りでなかった。感情がデータではないとされていた当時ならではの考えは、私達に斬新な視点を与えてくれる。その中でも彼女は「ニーチェ」という人物の話をよくしてくれた。「神は死んだ。でしたね?」私が言うと彼女は遠くを見ながら言った。「感情元素のある今となっては鼻で笑われるような言葉ですが、当時の人が自力で考え、見いだした言葉となると、聞こえが変わってくるでしょう?」と彼女は私に語った。遠い昔に思いを馳せる。蛍光灯がチカっと光った。彼女と話している間、私の世界は普段と違う色に見えた。機械では測り取れない何かが私の中で静かに育まれていたのかも知れない。
ある日、私はエリスと外に出かけた。誘ったのは私である。私は彼女をある場所に案内したかった。そこは寂れたビルの間。排気ガスとカビの匂いが充満し、私の鼻腔を突く。その匂いは捨てられた感情の叫びのように感じた。多くの感情を捨て去った者が、地に放り出されている。感情の抜け殻達。ギャンブルに依存し、快感以外の感情を捨てたもの、生まれた瞬間に感情を売られ、無感情に生きることを約束されたものなどもいることだろう。私は言った。「これを見ても尚、貴方は感情を売ろうとお考えですか?」彼女は何もためらうことなく答えた「勿論。私はあんなにも辛い過去を背負っていけるほど強くはありません」そう言い終えるとエリスは「ニーチェ曰く、忘却はより良き前進を生むそうですから」と笑っていった。彼女は手の震えを隠しきれていない。私はその震えを寒さによるものだと決めつけた。手を握り返したくならぬように。私にはその笑顔の意味が理解できなかった。
帰り道、私はエリスに改めて尋ねた。「貴方はなぜ、愛情を売りたいのですか?」やはり沈黙。その中で私は密かに後悔した。思えば私は、自分に向けてこの質問をしたのではないか。帰路に聞こえるのは雨音と、それをかき消す雑踏の足音だけだった。不意に、彼女は重い口を開いた「両親が…死んだのです。」彼女は記憶をなぞるようにゆっくりと静かに続ける「父は私に富と安心を、母は父を支え、家族に愛情をくれました。私は忘れる以外に前を向く方法がわからないのです」そう言った彼女の瞳の揺らぎを私は見逃さなかった。私は彼女と横並びで病院へ戻る。気付けば二人の歩幅は、ぴったりと合っていた。
エリスの手術の日が訪れた。手術前最後の面談。雑談はない。寒色の蛍光灯が照らす病室には緊張と不安の入り交じった独特の空気が籠もっていた。 「感情を摘出すると、その関連の記憶も、一部抜け落ちてしまう場合があります。」私は冷たくそう告げた。すると彼女は不安を噛み殺したような笑い、「どんなことも忘れて、苦しんでも構いません。生きるとは苦しむことだそうですから」「これもニーチェの言葉です。」と震える声で言ってみせる。 心臓の鼓動がいつもよりも大きく聞こえた。手先が冷たい。鉄と消毒液の匂いが鼻を通り抜ける。手術台の上にいるのは、エリス。大きく息を吐き、感情データに視線を落とす。
違和感。
彼女の感情データの中で、愛情だけが全く違う色彩を放っていた。手が他者のもののように感じられた。鼓動はさらに大きな音を鳴らしだした。自分という人格が軋み、音を上げているのを魂で感じた。機械が弾き出した感情データを見て私は思わずつぶやいた。
同じだ。私のと。
世界がわずかに歪んだ。
愛情の波形は私の感情とほぼ重なっていた。それはまるで、彼女が私の一部を宿していたかのようだった。私の中の何かが、誰かを呼んでいる…?
そんなはずはない。世界から徐々に音が消える。視野が閉じていく。医者としての私が、人類史の深層から這い出てきた本能を押し返そうとする。そういえば彼女は、生まれてすぐに父の会社が軌道に乗ったと言っていた。駄目だ。邪推するな。集中しろ。そう何度反芻しても、心には響かない。手術台の上の彼女に私は飢えた視線を突き刺した。
息を止めた。すっかり見慣れた彼女の顔。得も言えぬ安心感が全身を駆け巡る。手に体温が戻っていく。狭まった視野が広がり、機械の駆動音がうるさい。そこからは穏やかな気持ちだった。恐怖や動揺は、もう無い。淡々といつも通りの仕事をしていく。ただ正確にメスを入れる。機械を挿し、感情元素を吸い上げる。 私は愛を切り落とした。
手術後の夜、私は街へと赴いた。空の光を塗りつぶす街灯。湿った風がどこからか吹き続けている。
最も手軽で安価な感情。幸福。私はそれすらももう、見つけることができなかった。
術後2日間、私は病室に入れなかった。彼女は今どんな人になっているのだろうか。扉を開けた。扉を横へずらす度、指先に小刻みな振動が伝わる。エリスは目を覚ましていた。目が合った。長い黒髪に整った顔立ち。その瞳には確かな安定と落ち着きが宿っている。全身からふっと力が抜け、無意識に口角が上がるのを感じた。よかった。私は一言「容体は」………遮るように彼女は言う。「初めまして。貴方が私を手術してくれたのですね」ーーエリスは私を忘れていた。私はエリスに近づきすぎたのだ。私は膝から崩れ落ちた。言い表すことのできない感情を胸に抱える。世界から再び、色味が急激に失われていく。これを愛情であると言い切れない。私は私の心が憎い。向き直った私はただ一言「感情No.1125896摘出完了しました」とだけ告げて、部屋を出た。私のいま抱いている感情の正体。ただひたすらにそれを考えたが、答えはいつまでたっても分からなかった。
一体あの日からどのくらい経っただろう。脳裏にはまだ、あの灰色な病室が焼きついている。
社会は何も変わらず、ただ植物の様子だけが変化した。
ーー「感情No.1125869 愛情一億円からです」愛情。この単語が会場に響いた途端、どよめきが走った。愛情は滅多に出回らない。大勢の声がそれを取り合うように激しくぶつかり合う。
「一億三〇〇〇万!」
「一億四〇〇〇万円!」
「一億六〇〇〇万円!これが限界だ!」
私が持つのは全財産。ふっと立ち上がり機械的に一言「二億円」
会場はしばしのどよめきの後、沈黙が支配した。そして「感情No.1125869 二億円で落札されました!」会場には拍手が響いた。煩い。祝福の拍手すら今の私には煩い。感情の入ったチップの感触が指に滲んだ。これだけは手放せない。二億円で落札したそれを強く握った。ただ真っすぐと、帰路についた。会場の外は雨だった。視界がぼやけ、冷たい感覚が頬を伝った。それは雨なのか。それともーー
それすらももう、どちらでもいい。
何せ生きるとは苦しむことなのだから。
科学の果てより愛を込めて 檸檬 @Amasaka_Remon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます