冒険者たち

 今日の霧の中は、妙に静かだった。例のごとく魔物と接敵したりはしたが数も少なく、霧の症状も幻聴だったので結構な距離を進むことができた。霧から帰還して、いつものように血と吐瀉物と各種体液にまみれて汚らしい教会の一室に立つラッドの背に、聞きなれない低い声が掛けられた。


「よう、血滴けってきの」


 眉をひそめて、振り返る。知らない男が二人立っている。このあたりによくいるような薄汚れた格好を見るに、冒険者のようだ。その後ろには、アトラ。


「ラッド、帰ろ?」


 上背うわぜいのある男たちの身体の隙間からひょこっと顔を出して、いつもと違うこの状況を気にしたふうもなく、平然と日常通りの声を掛けてくる。

 のんきに近寄ってくるアトラを無視して、ラッドは声を掛けてきた男にすがめた目を向けた。


「おまえ、誰だ?」


 低い声で問いかけられて、黒髪の男が一瞬目を開いて沈黙した。わずかの間を置いてから、はははっ、と豪快に笑う。半歩後ろにいる茶髪の男が、それを咎めるように彼の肩を引いた。


「あー、悪い、あんた記憶ないもんな、倒れてたから。――昨日そこのお嬢さんに頼まれて、あんたを寝床まで運んだんだ」


 確かに昨日、ラッドは教会で倒れて娼館まで運ばれた。アトラ曰く、に運んでもらったらしいが、眼前に立つ彼らがそのしい。いきなり声を掛けてきた意図を測りかねて、ラッドは眉間にしわを寄せた。ラッドの赤い瞳ににらまれて、黒髪の男が大げさに両手を振った。


「待て、違う。別にあんたにタカったり危害加えたりする気はねえよ。そんな馬鹿じゃねえ」


 それならばなおさら声を掛けてくる意味が分からなくて、ラッドの目と眉の距離はさらに縮まる。うろたえた様子で黒髪の男が半歩後ろに下がると、足元の濡れた汚れがにちゃりと湿った音を立てた。黒髪の隣で、茶髪の男が口を開く。


「あんた、死神憑きとか血滴とか呼ばれてて怖いし、いつもひとりでいてなんか異様な感じするっていうか、やべぇやつだと思ってたんだ。でも最近はお嬢さんの尻に敷かれてるし、そんなでもないのかなと思って、声かけてみたかっただけだよ。元気そうで良かった」


「敷かれてねえ。こいつのイカれについていけねえだけだ」


 ラッドの後ろに立って、腕を掴んできたアトラの手を払う。いつも通りにラッドだけを見ているアトラにちらりと視線をやってから、ふたりの男に視線を戻す。黒髪の男がアトラを見て、笑った。


「はは、イカれたやつが泣きそうになりながら誰彼かまわず助け求めるかねぇ。いい子じゃねえか」


「……」


 ――アトラが泣きそうになっている姿が想像できない。しかし、アトラの実態を知らないであろう彼がそう言うということは、本当のことなのだろう。小さな手でラッドの手を掴んだアトラの涼やかな造作の瞳を見下ろすと、その目がにぃっと歪んで笑顔を作った。アトラの手を払って、黒髪に向き直る。


「――昨日は助かった。ありがとう。なにか礼できないか?」


 ラッドがそう言うと、眼前のふたりはきょとんと目を丸くした。


「冒険者にそういうこと言わねーほうがいいんじゃねえの?」


 黒髪の男の、低い声。それに茶髪の男が大きな声を被せた。


「じゃあ俺らとメシ食ってくれ! 霧の奥の話聞かせてほしい。俺ら、そんなに実力なくて……」


 思ってもみなかった提案を受けて、面食らったラッドは黙してアトラを見る。アトラは少しだけ不満そうな顔をしていたが、何も言ってはこなかった。


 今日はそれほど汚れていなかったので娼館に帰って軽く着替えて、いつもの料理屋に連れだって行く。道中で道行く者たちが他者を連れ歩くラッドを物珍しそうに見る。先を行くアトラとラッドの後ろで、ふたりの冒険者は少しだけ誇らしそうな表情をしていた。





 テーブルの上の料理は、すでに半分ほど各々の口の中に消えていた。慣れないふたりを警戒しているのか、アトラは妙におとなしく、何もしゃべらずにちまちまと皿の上の料理をつついている。

『霧の奥の話を聞く』と言っていたのに、黒髪の冒険者はいきなりラッドの身の上話を求めてきた。生来口の下手なラッドはそれを躱せずに、ここに至るまでの全てを語るしかなかった。落ちついた調子の相槌を受けながらラッドが話し終えると、三人の男はしばしの間、黙り込む。ことん。オレンジを絞って作ったジュースの入ったコップを、アトラがテーブルに置く音。


「ラッドさん……大変だったんだね。霧の塔には何があるんだろうね」


 一番に口を開いたのは、料理屋の店員だった。ラッドが他者を連れてきたのを珍しがって、「休憩に入ったから」と言ってちゃっかりと席について会話に混ざってきた。ラッドとしても普段から普通に接してくれる彼を無下に扱う理由もなく、彼の同席を受け入れたのだ。


『ラッド、おまえを霧の塔で待っているよ』


 ラッドから全てを奪ったあの魔物は、ラッドにそう言って霧消した。一晩にして街五つを飲み込んで死と狂気に包んだこの霧の中央には、確かにひとつだけ塔が立っている。地図には星見塔ほしみとうと書いてあり、どうやら夜空を観察するために高く建てられた施設のようだった。魔物の目的はわからないが、あの塔は、深い霧の奥で今でも静かにラッドを待っている。


 ラッドは首を振って、低い声で喉を揺らした。


「さあな。でも待ってるって言われたんだ。あいつがおとなしく待っててくれるんなら、おれが行かないとな」


「勝てる見込みはあんの?」


「俺は行かないほうがいいと思う。人数のいる自警団でも敵わなかったんだろ? 死んだら終わりだぜ」


 冒険者たちに口々に言われて、ラッドは息を吐いた。隣でアトラが静かにパンをちぎっている。店員が息を飲む音が聞こえた。


「……行くしかないんだよ。絶対に殺す。おれは今、そのために生きてるんだ」


 膝の上で、ラッドが指を握りこむ。アトラは相変わらずおとなしくて、何も言わずに今度はぬるくなったミルクスープをかき混ぜている。

 男たちはしばし、沈黙した。静まったテーブルに、アトラがスープを飲み込む小さな音が響く。その音に弾かれるように、黒髪の男が口を開いた。


「今どのへんなんだ?」


 問いかけられて、ラッドが足元に置いた鞄を膝に置いた。店員が慣れた手付きで空になった皿を積み上げて、テーブルの上に場所が開かれる。その上にラッドが地図を広げると、男たちがそれを覗き込む。


「ここだ」


 武骨な指先で、現在地が描き込まれた一点を指差す。長く使われて傷んだ地図のその中央には、赤い線でぐるぐると囲まれた星見塔。ラッドの指した一点から、それほど遠くない位置にある。


「もうすぐ着きそうだな」


「そうだな。今日は結構進めた。この調子なら近いうちに着きそうだ」


 顎を引いて答える。アトラの方に目をやると、いつもはラッドをまっすぐに見据える薄墨色の瞳が、ふいっとよそへ逸らされた。テーブルへ目を向けたアトラの小さな手がラッドの飲みかけの酒――冒険者に奢ってもらった――を手に取ったので、奪い返す。奪った勢いで一口だけ飲むと、強い度数で喉が焼けた。アトラの手が届かない位置にコップを置いて、別のコップから水を飲む。


「霧の奥はどんな感じなんだ?」


 黒髪の男が、ラッドに質問を重ねる。その声は少し笑っていた。ラッドとアトラのくだらない攻防が面白かったらしい。ラッドはふたたびアトラに一瞥くれてから、冒険者に視線を戻す。


「魔物が多いくらいでほとんど手前の方と大差ないな。――ああ、でも、建物が異様に痛んでる」


「おまえ、昨日橋から落ちてびちょびちょになって大変だったもんね」


 今まで黙っていたのに、アトラが急に会話に割り込んできた。ラッドがアトラをめつけると、アトラはいつもの調子で笑顔を作った。


「おまえ……」


 短く嘆息する。アトラはラッドに向けた笑みを深めて、テーブルに身を乗り出した。アトラから離して置いた酒を手に取った。ふたたび奪い返す気も失せて、ラッドは鋭く息を吐く。


「あんまり飲むなよ」


 言動が妙に幼いときがあるが、アトラはおそらく成人している。見た目のとおりに歳までもエンシアと同じなのだとしたら、二五にじゅうご歳くらいだろうか。エンシアが生きていれば、今頃その歳になる。

 アトラにはなんとなく酒を与えないほうがいい気がして、ラッドは冒険者の好意を断って自分の分だけ酒をもらった。


「昨日……」


 茶髪の冒険者が、小さな声で反芻する。黒髪の男がそれに重ねた。


「あんた、昨日それで倒れたのか……?」


 犬みたいな仕草で酒が入ったコップの匂いを嗅いでいるアトラを尻目に、ラッドが頷いて返す。


水路橋すいろきょうだったんだ。渡ろうとして崩落に巻き込まれてな、霧が染みた水を被っちまった」


「……よく生きてたな」


 つぶやくような調子で返された黒髪の感嘆に、左右にいる男たちが頷いて同意する。


「おれはまだ死ぬわけにはいかないからな」


 ラッドの低い声。隣でコップの中身を口に入れたアトラが、咳き込んだ。四対の目が、アトラに集まる。


「うわっ、ラッドこれまず」「やめろ、そういうこと言うんじゃねえ」


 咄嗟にアトラの小さな口を塞ぐ。ラッドの手にたやすく収まる細い顎先。その唇は湿っていて、指先に触れると柔らかかった。ラッドの視界の端で、三人の男が一様に笑う。


「長生きしてくれよ。俺ら、あんたに憧れてんだ」

「俺もかっこいい二つ名欲しいよ」

「オレ、毎日ラッドさんの噂聞くよ。冒険者はみんなラッドさんが好きみたい」


 素直な調子で口々に言われて、悪い気はしなかった。そっけなく返したラッドの声は、少しだけ笑みをはらんで揺れていた。


「やめとけよ。おれなんかろくなもんじゃねえぞ」

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