いいにおい
軽やかな音を立てて、扉が開かれた。
「ラッド、ただいまぁ」
部屋に飛び込んでくるアトラの小柄な身体と、上機嫌に弾んだ声。椅子に座っていたラッドは、赤銅色の目を細めてアトラを見た。袖口で額の汗を拭う。
ラッドと目が合ったアトラは、面食らったような顔をして背筋を伸ばした。
「えぇ……なんで睨むの?」
「睨んでねえ」
短く返して、手にしたコップから水を飲む。ラッドが座る対面の椅子に腰を下ろして、アトラがテーブルに小さな箱を二つ乗せた。弁当だ。ラッドがアトラの白い頬を見ると、その少し上にある柳眉がきゅっと寄る。
「……さっきから何?」
「いや、別に。問題ねえならいい」
首を振って答えると、アトラが歯を見せて口角を吊り上げた。
「あっ、もしかして心配してくれたの?」
「うるせえな」
図星を突かれて痛かった。雑に突っぱねると、アトラの方からいつもの笑った吐息が聞こえる。
「ご飯食べよー。ラッドお薬飲んだの? びっちょびちょ」
笑いながら、アトラがラッドの濡れた額に小さな手を伸ばしてくる。それを払いのけて、ラッドはアトラの薄墨色の目を睨む。
「さわんな。汚えだろ」
「汚いのはどっち? わたし? ラッド?」
ラッドの気迫の薄い眼光に当てられて、くにゃりと細められるアトラの目。
ラッドはテーブルの上に静かに視線を這わせて、発汗薬のせいで額に滲んだ汗を拭う。症状はもうすっかりと落ち着いていて、あとは薬の効果が切れるのを待つだけだ。
「……おれはおまえがよくわかんねえ」
小さな声をテーブルに落とす。アトラは何も言わなかった。ラッドが椅子の上で
「おまえ、なんなんだよ。意味わかんねえことばっかり言いやがるし、いつもイカれたことばっかりするくせに、こういうときに急に甲斐甲斐しくなるのはなんなんだ?」
テーブルに向けて、次々に言葉を積み重ねていく。言葉に
「……怒ってる?」
アトラのささやくようなかすかな声。恐ろしいほどになめらかに、ラッドの胸の中に滑り込んでくる。心地のいい声を振り払うように、ラッドは首を左右に振った。
「怒ってんじゃねえ。わかんねえんだよ、おまえが」
「わたしはわたしのために動いてるだけだよ? わたしはおまえが欲しいんだ。欲しいと思ってるおまえに
ラッドに向けて放たれたアトラの声は、驚くほどに静かだった。真っ直ぐな言葉に殴られて、ラッドは束の間沈黙する。
「……おれはおまえのものには……」
泳いだラッドの赤い目が、アトラの瞳に吸い寄せられた。その目は、いつになく穏やかに微笑んでいた。口をつぐんで、息を呑む。ラッドはアトラから目を逸らせなかった。
*
「ねえ、ラッド」
湯上がりのまだ湿ったラッドの髪を、アトラの細い指先が梳いた。安っぽいベッドに寝そべっていたラッドは、赤銅色の虹彩だけを移動させてアトラを見る。
「そろそろ寝る時間だよ……?」
アトラの細い身体が、腰の上に乗ってくる。頼りない体重。天井に取り付けられた魔導ランプの逆光に翳る白い顔。ラッドの身体に覆いかぶさるようにして、アトラが抱きついてくる。
「んー、ラッド、身体おっきい。石鹸のにおいする」
「やめろ、嗅ぐな」
首筋に埋められた顔を、手で押しのける。小さな顔を覆うラッドのでかい手のひらの向こうで聞こえる、くぐもった笑い声。
「んふふ……」
アトラの繊細な指先が、ラッドの胸を撫でる。くすぐったくて身体を硬直させたラッドは、アトラの細められている目を見た。
「
短い一言。アトラはゆっくりとしたまばたきをそれに返した。硝子細工みたいな指先で、ラッドのシャツのボタンをひとつ外す。
「昨日、寝る前にしなかったでしょ? 寂しかったなー」
甘える子どもみたいな口調。ボタンがまたひとつ外された。
「おれはおまえのためにしてるんじゃねえ。眠るためにしてるんだ」
みっつ目のボタンが解かれる。小さな手を掴んで押しのけると、頭上からいつもの含み笑いが降ってきた。
「おまえはそうでも、わたしは違うの」
「だったらなんのためだ?」
「ラッドが欲しいの。あとね、ラッドとするの、気持ちいいから」
手のひらで己の半身を撫でられて、ラッドの脳裏を霧の中で自分を苛むアトラの痴態がよぎる。撫でられた部分が熱を帯びて、アトラがまた笑った。ラッドは鋭く息を吐く。
「おれはおまえのものにはならねえって言ってるだろ」
「じゃあおまえは今、誰のものなの?」
「……」
落ち着いた調子の声に問いかけられた。ラッドは何も答えなかった。壁に掛けられた薄緑のカーテンの方に視線を向けて、こちらを見下ろすアトラから顔を逸らす。薄く開いたカーテンの向こうで、ゆらりと霧が揺れたような気がする。
「んふふ、ラッド、おまえかわいいね。――ねえラッド、今日もしようよ。それともわたしにしてほしい?」
猫でもかわいがるように、アトラがラッドのズボンを撫でる。ラッドの鉄錆色の瞳が、アトラの黒い瞳を見据えた。
「……おれがする。おまえに好きにさせるとめちゃくちゃになる」
「――んふ、いいよ。じゃあわたしのこと好きになだけめちゃくちゃにしてね」
アトラの白磁の肌を彩るネイビーブルーのワンピース。脱ぎ捨てられたそれは床に落ちた。
きし……ベッドが軋む音。ラッドの上から退いたアトラが、シーツの上に横たわる。アトラの白い肌に、ラッドの黒い影が落ちる。
「ラッド、おいで」
「おまえ、ちょっとだまってろ」
アトラが開いた脚の間に膝を置く。覆いかぶさるようにして薄墨色の瞳を見下ろすと、その目が笑顔を作った。己の体重で潰さないように気をつけながら抱きすくめる。細い首筋に顔を滑り込ませて、薄い耳朶に向けてささやきかけた。
「おまえの身体は……ちいせえな。なんか、甘いにおいがする」
「好きなだけ嗅いでいいよ」
手のひらで頭を抱かれて、くしゃくしゃと撫でられた。その手を捕まえて、ベッドの上に縫い付ける。
「……おまえも嫌がれよ。おれは匂い嗅がれるのはきらいだ」
見下ろしたアトラの整った顔が、ラッドの影の中で笑顔を浮かべた。
「だって、わたしは嫌じゃないもん」
*
荒い呼吸を整えながら、ラッドは寝台に横たわって天井の灯りを見つめる。振り返ったアトラのしっとりとした手が、汗ばんだラッドの胸に添えられた。
「もうやめちゃうの? 寝ないの?」
余韻の残った、ぼやけた声。ラッドは天井に目を向けたまま、汗で濡れた赤銅色の髪をかきあげた。
「今日はもういい。……眠れそうな気がするんだ。おまえも落ち着いたら身体流してこい」
「ふぅん。寝るまで付き合ってあげようと思ったのに。ラッド、急に寝ちゃうから面白いんだよ。重くておまえの下から抜けるの大変だけどね」
そう言って、アトラが胸元に頭を寄せてきた。反射的にその頭を撫でてから、ラッドは手をシーツに下ろした。
「うるせえな。余計なこと言うな」
「んふふ」
いつもどおりの笑い声。少しの間を置いてから、アトラがベッドから立ち上がった。それにつられるようにラッドも起きて、服を着てシャワーを浴びに部屋を出た。
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