2. まだ鮮烈に痛む過去の傷
過去の残り香
自己嫌悪の朝が来た。昨夜の夢は、懐かしい夢だった気がする。いつも懐かしい記憶を夢に見る気がするが、朝起きると、夢の記憶なんて霞と消えてしまう。時々、過去も未来も妄執もすべて忘れて眠ったまま死んでしまえればと思う時がある。どれだけ強く願ったって、朝になれば目が覚めてしまうのだけれど。
霧に取り憑かれて性的に消耗しないと眠れなくなったラッドは、朝起きるとほとんど眠る前の記憶がない。女の身体を浅ましく貪る自分の獣のような呼気だけが、耳の奥にこびりついて離れてくれない。昨夜の女の顔だって覚えていないのだ。大抵は朝にラッドが起きる前に女はいなくなっていて、だからラッドは昨夜の相手が誰だったかもわからない。
しかし今日は珍しく、隣にひとの気配があった。身体に掛けられた掛け布団をめくりながら起き上がると、白い脚が見えた。なぜか自分と逆方向に眠っている娼婦の、職業のわりに清廉な造作の性器。その上にある、白くなめらかで平らな腹。へその横に小さなほくろが縦に三つ並んでいて、亡くした恋人を思い出したラッドは勢いよく布団を剥いだ。
「んー……寒い……布団返して……」
寝ぼけた声で文句を言いながら起き上がってきたのは、ラッドの恋人のエンシア。――ではなく、昨夜初めて会って、勢いでラッドが身請けした娼婦のアトラだ。寝ぼけた頭が急に冴えてきて、昨夜の記憶がよみがえってきた。
彼女はエンシアによく似ている。昨夜は見る余裕などなかったので気が付かなかったが、服に隠れたほくろの位置まで同じだ。この世界に死者を蘇らせる魔術なんてものがあるなんて聞いたことがないし、エンシアは、ラッドの腕の中で確実に死んでいる。埋葬だってこの手でしたのだ。エンシアの親族はあの村から出たこともなく、彼女の親戚とは全員面識があるが、容姿の似た親戚もいなかった。
アトラとエンシアはよく似た他人。そういうには、似ているという次元を超えるほどに容姿が一致している。しかし、確実にエンシア本人やその血縁者ではない。夢でも見ているのだろうか。それとも幻覚の類だろうか。まともに眠れなくなった自分が狂っているのは知っていたが、ついに赤の他人と恋人を誤認するほど狂ってしまったのだろうか。
ラッドから奪い返した布団に包まってぬくぬくと幸せそうな顔をしてベッドの上に座っているアトラ。動悸がおさまらないラッドとアトラの薄墨色の目が合うと、彼女は布団を広げて、ラッドを布団にくるむようにして抱き着いてきた。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
触れ合った素肌から感じる彼女の体温。なめらかな素肌の感触。華奢な身体。壊れないように大切に触れたエンシアのぬくもりを思い出して、ラッドは頭を振った。
「……おかげさまでな」
そっけなく返して、彼女の肩を押して突き放す。乾いた昨夜の体液で下半身の皮膚が突っ張っている。朝はいつもこうだ。シャワーを浴びてこなければ。ベッドから起き上がって、適当に床に脱ぎ捨ててあった服を手に取った。その近くに落ちていたアトラの下着みたいに品のないデザインのワンピースを拾って、彼女に向かって投げる。
「おまえもシャワー浴びて来い。娼婦なら場所くらいわかるだろう」
アトラは素直に頷いて、素肌の上にワンピースを被るとベッドから床に降りた。部屋を出ようと歩く彼女の下品な丈の着衣の裾から、形のいい脚の付け根がちらちらとのぞく。エンシアによく似た身体が男どもの下品な視線に晒されると思うと不愉快で、ラッドは彼女の頭に自分の外套を投げ掛けた。
「羽織ってけ。
アトラは何も答えなかったが、言われたとおりに外套を羽織って、小柄な彼女には丈の長いそれの裾を引きずりながら部屋を出た。
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