いつもおまえを夢に見る

 甘酸っぱいレモンカードがたっぷり詰め込まれたレモンマフィン。この村に二つだけあるパン屋の、そのうちの一軒にしか置いていない商品。レモンの旬が過ぎると保存の効くジャムに置き換えられてしまうので。この味は冬だけの特別なもの。冬の間に食べられるだけ食べておかないと損をするような気がしてしまう。

 今日は少し暖かい。今日みたいにラッドが休みの日は家の仕事を手伝ったりするのだが、今日はいらないと言われた。

 天気がいいから庭に出て、先ほどパン屋で買ってきたレモンマフィンをテーブルに並べてかじりながら風を浴びる。特にやることもないけれど、家の中にこもっているのは性に合わなくて落ち着かないのだ。母親が淹れてくれたミルクコーヒーを一口すする。遠くから耳なじみのいいかわいい声が聞こえてきた。


「あーっ、ラッド、それ拾って!」


 足元に、レモンがひとつ転がってきた。ラッドの大きな手と比べると作り物みたいに小さなそれを拾い上げて、レモンを追って駆けてきた小柄な少女に渡してやる。彼女は薄墨色の瞳を穏やかに細めて、ラッドに「ありがとう」と礼を言った。

 彼女は胸元に抱えた赤ん坊ほどの大きさの竹籠にレモンを戻す。籠いっぱいに積まれたレモン。どうやら収穫をしてきた帰りらしい。ラッドが今食べているレモンマフィンにも、エンシアのところで育てたレモンが使われていると聞いた。


 冬の乾いた風が、エンシアの肩の上で揃えた黒髪を揺らした。ラッドの顔から視線を外して、テーブルの上に並んだ三つの巨大マフィンを視界に捉えたエンシアが眉間にしわを寄せる。ラッドの赤銅色の目に視線を戻して、少しきつい造作の目の端を吊り上げた。


「ラッド、またそんなに食べて! 身体へんになっちゃうよ?」


 冬になると、エンシアはこのやり取りを頻回にけしかけてくる。これはラッドの冬だけの楽しみなので、いつも大量に食べるのをエンシアが心配しているのは知っているけれど、邪魔されては困る。テーブルに並んだマフィンを一つ掴んで、エンシアの眼前に向けて差し出した。


「じゃあ一個やるよ。食う?」


「もうっ。食べるけど……」


 エンシアは困ったように眉を下げて、静かに息を吐いた。これもいつものやり取りである。正直に言うとラッドは、エンシアとこのやり取りをするためにわざわざ外に出ている側面もある。

 レモンが積まれた籠を足元に置いているエンシアに向けて、ラッドが席を立ちながら言った。


「コーヒーもらって来ようか。一緒に休憩しようぜ」


「うん」


 くすぐったそうな顔をしてはにかむエンシア。彼女はかわいい、というよりは美人といった感じできつめの造作をしているのだが、その容姿とは反対に朴訥な性格をしている。きつい顔にふにゃりとした笑顔を浮かべるエンシアがかわいらしくて、ラッドは密かに口元を緩めた。


 家に入って母親にコーヒーの残りをもらっていいか尋ねると、母親は何かを察したような笑顔でテーブルの上を指差した。にやけた口調で何事かいじってくるのを適当に突っぱねて、カップにコーヒーとミルクを注ぐ。


 ラッドがエンシアのことを好きなのは、もはや公然の秘密となっている。エンシアだってそのことを知っているし、言葉にはしないがエンシアがラッドを想っていることも知っている。それでもまだ、恋人の関係になるには早い。


 ラッドはエンシアを大切に思っている。だから彼女が十八になるまでは、彼女とは恋人になる、という一線を超えたくない。そこを踏み越えてしまえば、あっさりと欲望に負けてしまいそうだから。

 最近でこそ今日みたいに家の手伝いで作物の収穫なんかもできるようになっているが、エンシアは少し身体が弱い。日に当たる時間が短くて白い肌も食が細くて痩せた身体も彼女の体の繊細さを表しているようで、ラッドが欲望にまみれた手で触れて壊してしまうのが怖かった。


 ミルクコーヒーを持って外に出ると、椅子に座ったエンシアが、ラッドが先程まで飲んでいたコーヒーカップに口をつけていた。目が合うとエンシアは切れ長の瞳を丸くして、いたずらがばれた子犬のような顔で目を泳がせた。


「ばれちゃった。喉乾いててつい……」


「別にいいけど、ほら」


 たっぷりとコーヒーが入ったカップを差し出すと、エンシアの小さな手が伸びてきてそれを受け取る。細い指がラッドの手に触れて、ラッドの脳内を電撃が駆ける。小さくて冷たい指先の感触を反芻して、エンシアの隣の椅子に座りながら指をもぞもぞと動かす。


「ラッド、マフィンこれで何個目?」


 テーブルの上に置かれた四個の巨大マフィン。それに目を落として、エンシアが訪ねてくる。


「まだ一個目」


「ふぅん」


 エンシアがテーブルからラッドが齧ったマフィンを取って、チョコレート色の包み紙を剥がしながら相槌を打つ。ラッドによって三分の一ほど削られたそれを半分に割って、包み紙に乗ったほうをラッドに差し出した。ラッドはそれを受け取って、一口齧る。


「今日はあと一個までだよ。あとの二個は明日のぶんね」


 そう言って食べかけのマフィンに口を付けたエンシア。人の食べかけたものに手を付けるようなやんちゃなことは、彼女はラッドにしかしない。

 エンシアは三軒離れた家に住んでいる。ラッドよりも三つ年下のエンシアとは、彼女が産まれたときからの付き合いだ。ラッドが幼い頃はきょうだいのように過ごして、気がつけばいつの間にか、互いに好意を持っていた。きっと、だった頃の感覚が抜けなくてこういうことをするのだと思う。ラッドだってなので最初は変に意識していたが、最近は慣れてしまってあまり気にならなくなった。


 幼いエンシアを近所に住んでいる他の男どもと一緒に水浴びに連れ出して、風邪を引かせて親にめちゃくちゃに叱られたのが昨日のことのように思う。思えば、エンシアはあの時から特別ラッドに懐いていた。ある程度の歳からは男女の垣根が分かれて一緒に行動しなくなるものだし、図体がでかくて顔つきの険しいラッドは特に女子からは怖がられたが、エンシアだけはラッドによく声をかけてくれた。多分そのあたりから、ラッドはエンシアを異性として好きになったのだと思う。


「……向こうで食うとからかわれるんだよ」


 はぁ、と息を吐きながら言う。何度かマフィンを自警団の訓練場に持って行って昼飯にしたことがあるのだが、「また女みたいなもん食って」とからかわれるのがめんどくさくて、最近は休日に家で楽しむだけになってしまった。本当は毎日でも食べたいのに。


「んふふ。ラッドのことよく知らなかったら、かわいいマフィンが好きなのは面白いって思うかも」


「うるせえな。別に女みたいな食いもんが好きでもいいだろ」


 拗ねた口調で悪態をつくと、エンシアはからからとかわいい声で笑った。


「わたしは別に何とも思ってないよ? だって、ラッドの好きなものはなんでも知ってるもん」


 含みのある言い方。うつむいたエンシアが、黒い瞳だけをこちらに向けて見つめてくる。――かわいい。思わず頬をつついてやりたくなるのをこらえて、ラッドはコーヒーを口に含んだ。冬の風がラッドの赤銅色の髪を揺らす。

 今日は暖かいとはいえ、風が吹くと寒さを感じる。上着を脱いでエンシアの細い肩に掛けてやると、エンシアは涼やかな印象の目元をふわりと細めて上着の前見頃を抱きしめた。


「ラッド、わたし……いつまで待てばいいかなあ?」


 何を、とは言わない。けれど、それが何を指しているのかはラッドにはわかる。ラッドは首を左右に振って答える。


「……あと二年。おまえが十八になるまで」


「わたしは別に」「おれが嫌なんだよ。待ったことは後悔させないから……な? もう少し待っててくれよ」


 言いかけたエンシアの声を遮って、優しい口調で諭すように言う。エンシアは不満げに唇を尖らせていたが、しばらく黙した後に、ゆっくりと頷いた。


「……うん」


 エンシアのへその横に三つ並んだほくろがあるのを知ったのは、ラッドの宣言通りに二年後のことである。

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