第8話 揺れる心
秋の柔らかな午後、彩音は元彼・佐藤久司からのメールを眺めていた。
「今度、食事でもどう?」
胸がざわつく。昔の記憶が呼び起こされ、あの頃の笑顔や時間がふとよみがえる。夕暮れの光がカーテンを透かし、部屋にオレンジ色の影を落とす。彩音は立ち上がり、窓の外をぼんやり見つめた。
「寛美のことは大好き。でも、この人と付き合えば普通の生活が……結婚して、子供が生まれてって幸せが手に入れられる……」
罪悪感と甘い誘惑が交錯する。
レストランに着くと、久司は前と変わらぬ穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「変わらないね、彩音」
柔らかな声に彩音も微笑み返す。昔と同じ、自然体の彼。話し方、間の取り方、ちょっとした仕草まで安心感をもたらす。
テーブルには彩音の好みを覚えていたかのような料理が並ぶ。口に運ぶと、懐かしい記憶がふわりと蘇る。
「これ、君が好きだったよね」
久司は嬉しそうに言い、彩音も微笑みながら頷く。
話題は自然と仕事や近況、そして久司の自慢話にも及ぶ。彩音は心の中で笑いながらも、軽く頷くことしかできない。胸を高鳴らせていた頃の感覚とは少し違う。
楽しい雰囲気を楽しみつつも、久司の会話は音楽のように流れていき、彩音の心は上の空だった。
食事を終え、二人はレストランを出る。夕暮れの空が朱色に染まり、彩音は胸の奥に小さな葛藤を抱えていた。
近くのビジネスホテルに誘われ、彩音は少し酔ったフリをしてついていく。部屋に入ると、柔らかな光が二人を包む。
久司の温もりに抱かれながらも、彩音の頭には先日参列した結婚式の光景がよぎる。華やかなドレスに包まれた友人の笑顔、手を引く小さな子どもたちのはしゃぐ姿。幸せそうに微笑むその光景を思い出すと、「これもまた、幸せなのだ」と自分に言い聞かせる。
一方で、久司の酒臭い息と、仕事や付き合いが優先だった日々の記憶が胸をざわつかせる。今の久司の温もりや懐かしい汗の匂い包まれながらも、過去の寂しさを思い出し、同時に未来の幸せも見せてくれる。彩音の心は揺れ、甘く切ない葛藤に包まれたまま、夜は静かに更けていく。
「私は……どうしたいの?」
自分に問いかけながら、久司の指先を感じる。簡単に手に入る幸せの誘惑と、胸の奥に芽生えた複雑な感情が絡み合う。彩音の心は揺れ続け、久司の温もりに身を任せながらも、心は遠くで寛美の笑顔が霞んで見えた。
夜は深く更け、部屋に静けさが戻る。その中で彩音は、甘さと寂しさの入り混じった感情に身をゆだねながら、決断の時を待っている。
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