第10話 四年の歳月

 別れから四年。寛美は日常のリズムに戻っていた。

 朝の光で目覚め、いつもの通勤路を歩き、カフェでコーヒーを飲む。彩音の存在は、胸の奥で柔らかく疼くけれど、顔を上げれば現実は静かで穏やかだった。


 ネイリストの仕事も順調で店長に昇格した。お客様も指名の予約で二が月先まで一杯に出来るようになった。

 趣味の絵画も月に1枚は売れるようになり、生活はだいぶ楽になった。充実した生活を送っていた。

 出来れば公私共にと言いたいところだが、まだあれから恋人は出来てはいない。身体の関係を一度もち別れる事を繰り返していた。


ーー

 

  四年の歳月。彩音は結婚して4年目。夫・久司と小さな娘・ヒロカと暮らしている。


  朝の台所で彩音は、娘に朝食を用意しながら、窓から差し込む柔らかな光に微笑む。

「ママ、お弁当は?」

「はいはい、ヒロカちゃん。今日はサンドイッチね」


 彩音は手際よくサンドイッチを作り、ヒロカの小さな手に持たせる。娘の笑顔は無垢で、胸がぎゅっと温かくなる。


 夫は娘を幼稚園まで送ってくれるが、彩音は彼の中に別の女性がいることを知っていた。表面上は幸せそうに見える日常だが、心の奥に小さな棘が刺さったままだ。


 彩音が簡単に久司を選んだように、久司もまた彩音を選んだ理由は、別れたばかりの寂しさを埋めるためだった。

 怒りや憎しみよりも、どこかバチが当たったような感覚が胸に広がる。愛していた寛美を手放してまで手に入れた「普通の幸せ」は、こんなにも脆く、重いものだった。


 ヒロカは可愛い。無邪気な笑顔に、愛情を注いでも注ぎきれないような幸福感が溢れる。

 しかし、同じ空気を久司と共有することに、吐き気がするほど嫌悪感を抱く自分もいる。もう、かつての恋人・寛美の記憶は、日々の忙しさの中で少しずつ薄れていっている。


それでも、ふとした瞬間にバニラの香りに心を揺さぶられる。寛美の柔らかさ、手の温もり、抱きしめられたあの日の感覚…。記憶は甘く、温かく、しかしもう決して手に届かないもの。

 

「寛美、元気でいてくれたらいいな…」

 

胸の奥でそっとつぶやく。久しぶりに寛美がくれた香水を身に纏うと、ふわりと懐かしい温もりが蘇る。記憶の中で彼は微笑み、あの頃の穏やかで優しい時間が指先に触れるようだ。


 愛は消えない。それでも、二人の道はもう違う。彩音は肩を震わせ、小さく息をつく。あたしが捨てたんじゃないかと、心の奥で自分を責めながら、それでもひろかの笑顔に引き戻される。

 現実は静かで、優しく、けれど切ない日常が続いていく。

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