第9話 普通の幸せって

 十月は結婚ラッシュの季節。ジューンブライドと言われるが、日本では六月は梅雨時期。

十月、十一月は気候が良く、結婚式が多いとされている。


 彩音も最近二件ほど結婚式に呼ばれ、ワンピースを買ったり、美容院で髪をセットしたり、ご祝儀でお金が無いと嘆いていた。

 その頃から、どこかよそよそしい態度になってきた。


 昼下がりの光が寛美の部屋に差し込む。

寛美はソファに座り、彩音の小さな手を握る。温かくて、柔らかくて、抱きしめたくなる手。


「寛美……私、やっぱり……普通の結婚がしたくて……」

彩音の声は小さく、でも迷いのない決意を帯びている。

「……元彼となら、結婚して子供を持つことも簡単にできる。すぐにでも……始められるの」


私の胸はぎゅっと締めつけられる。

「彩音……それって……私じゃ、女じゃだめってことなの?」

少し震える声で訊くと、彩音は私を見上げ、やさしいけれど切ない笑みを浮かべた。


「寛美……あなたのことは、大好きなの……でも……」

胸の奥に押し込めた想いが、言葉にならずに震えている。

「あたし……結婚や出産に憧れてしまったの。元彼がまた付き合いたいって。あたしは卑怯だけど、簡単に手が届く幸せを選ぼうと思うの」


 彩音の心の中では、愛と後悔が入り混じる。

「寛美を失いたくない……でも、子供を持つ“普通の暮らし”は、どうしても諦められない……」

自分の弱さを悔やみながらも、彩音は決意を胸に押し込める。


 言葉の裏に、深い愛情が隠れていることも、寛美はわかっていた。

彩音を責めるつもりはない。ただ、自分の望む“普通”を追い求めただけだ。


「わかった……彩音の望むことなら、仕方ないね……」

 

 寛美はそっと笑い、手を握り返す。涙はこぼれない。彩音の幸せを願う気持ちだけが、胸にじんわりと広がる。


「でも、本当は嫌!彩音が…好きなのに、…離れたくないのに…」

大粒の涙が溢れ、喉が締まり言葉が上手く出てこない。


 彩音は寛美を抱きしめ、声を震わせながら「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返す。

「でも、誰よりも彩音には幸せになって欲しいから別れるわ。お願い、最後に抱いてほしいの」


 愛情がない訳ではないが、なんだか冷たい肌が触れ合う。

これで最後だと思うと涙が溢れるが、もう彩音が私を見ていないと思うと、口付けさえ、風のようにすり抜けるだけ。舌も乾いているよう。


 寛美が望むなら最後に一度抱くなんて簡単だと思っていた彩音も、こんなに辛い行為になるなんて思わなかった。

 好きだけど別れる二人の行為は虚しい作業になり、心を削るだけだった。


 服を着て、部屋に置いておいたもの達を紙袋にまとめている彩音を、ベッドに寝転んだまま眺める。

彩音がテーブルに合鍵を置くと涙目で寛美を見つめた。


「寛美、じゃあ行くね」


 寛美の前からゆっくりと歩き、玄関へ向かう彩音の背中を見つめる事しかできない。

 

 彩音の瞳には、愛と迷い、そしてほんの少しの後悔が混ざっている。心の奥で小さくつぶやく。

『寛美……ごめん、そして……ありがとう……』


 バタンとドアが閉まる音がした。

寛美と彩音の恋は今、終わった。

 

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