皇國の白き魔女 【改定版】

零章 ー 壱

　十四歳のアレクシスは、泥に汚れた軍服の袖で額の汗を拭った。慶州の険しい山岳地帯を行軍する五十人の仲間たち——誇り高き帝國の戦士たちだと、配属されたばかりの頃は信じていた。

　だが今、重い雲に覆われた闇の中で、彼らの赤い瞳は恐怖に揺れている。

　手に持つライトの光だけが頼りだった。

　その時、どこかで叫び声が上がった。

「——魔女だ！」

　声が隊列を駆け抜ける。アレクシスの心臓が跳ねた。

「白き魔女が出たぞ！」

　行軍がピタリと止まる。

　ザッ、と草むらが揺れた——アレクシスから数メートル先だ。

　一斉に向けられた無数のライトと銃口が、その一点を交差して照らし出した。

　光の中に浮かんだのは——金色の小さな瞳だ。フサフサとした毛並みの尾が跳ねる。

　それは、一匹の山狐だった。

　驚いた狐は、慌てて闇の奥へと逃げ去っていく。

「なんだ、ただのキツネか……」

「落ち着け、誤射するなよ」

　アレクシスは大きく息を吐いて胸を撫で下ろした。

　吐く息は白く、冷たい。

　異国の夜は不気味だった。急峻な山の影が、巨大な怪物のようにうねって見える。

　冬の冷気に混じり、男たちの汗と鉄の臭いが漂っていた——恐怖の臭いだ。

　少年兵のアレクシスの隣で、仲間の誰かの喉がゴクリと鳴る。

　暗闇の中、青白い光の束だけが忙しなく交錯していた。光が仲間たちの顔を次々と浮かび上がらせる。

　血のように赤い瞳、泥に汚れた金色の髪。強張った表情。

　アレクシスの持つライトが、不意に目前の男を照らし出す。

　自分よりも遥かに高い背丈。擦り切れた軍服。頬には切り傷がある。

「おまえか……ライトをさげろ」

「す、すみません」

　アレクシスは慌ててライトを下げる。

「上官……先程、誰かが言われていた、白き魔女とは？」

「皇國のエース・オブ・エースだ」

「しかし、皇國軍は撤退したのでは？」

「偽装撤退の可能性もある。それに——」

「それに？」

「奴は単騎でも戦局を覆す。妖刀を操る化け物だ」

　その時、ヒュウと風が吹き、枯れ木を揺らした。

　その瞬間——。

　風を切り裂く音とともに、目の前の空気が歪んだ。

　同時に足元に音が響く。

　ライトをそこへ向けると、矢が地面に刺さっていた。

「矢？」

　ライフル銃の時代に、弓矢——？

　アレクシスは銃を握り締めようとして、うまくいかない。手袋の中は嫌な汗で湿っていた。

　仲間たちのライトを握る手が震えているのだろう。光の筋が乱れ踊る。

「ライトを消せ！　的になるぞ！」

「は、はい！」

　命令と共に、ライトが次々と消える。

　深い闇がすべてを包み込んだ。

　見えぬ敵の気配に、体が自然と縮こまる。

「アレクシス、いるか？」

　背後から上官の声がした。

「はい」

「俺と背中を合わせろ」

　肩を掴まれる。

「はっ、はい」

　アレクシスは暗闇の中で体を回し、上官の背に自分の背を預けた。

　初陣の少年兵にとって、大人の筋肉で覆われたその背中は盾に思えた。

　しかし、少年兵の後頭部に、上官の厚い肉の壁越しに、ドクン、ドクンと早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。階級章も勲章も、恐怖の前では無意味だった。

　野獣の遠吠えが木霊した。

「ナアァァァァ！」

　銃を構えるアレクシスの手が跳ね上がる。見上げると、急峻な崖の上、二対の琥珀色の目が輝いている。

　距離が離れていてもわかる。狐よりも遥かに大きい目だ。

「で、出た！」

　アレクシスの声は裏返った。

「《神くず使い》のほとんどは女だ。遅れを取ることはない！　我らは誇り高き帝國兵士だ！」

『おおおおおッ！』

　恐怖を振り払うように、男たちの怒号が響いた。

　アレクシスも喉が痛くなるまで叫んだ。

　その時、空を覆っていた雲が動き、切れ間から満月が姿を現した。

　銀色の光が戦場を照らし出す。兵士たちの緊張がほんの少し緩んだ。

　野獣だと思った正体がわかった。

　二匹の巨大な獣だった。

　その時だった。

「上を見ろぉぉぉ！」

　兵士たちの首が一斉に空へ向く。

　山頂付近から、何かが飛び立ち始めた。

　鳥ではない。背に翼を持つ人の形をした影だ。月光がその輪郭を銀色に縁取り、死神のように優雅に旋回している。

　——バーンッ！

「魔女が、出たぞ。撃て！」

　誰かが引き金を引いた。

　それを合図に、次々と銃口が火を吹く。鼓膜を揺らす爆音。火花が闇を食い破り、硝煙が鼻腔を突く。

　そのなか、アレクシスは動けなかった。

　父親が火に包まれて死んだ光景が、脳裏に蘇ってきたのだ。

　どうして、どうして、皇國のやつは、自分の父親を見殺しにしたんだ。

　——いや、違う。今はそれどころじゃない。

　思考を切り替える。

　状況を分析する。

　先程の矢は、彼らからのものだろうか？

　だとしたら、どうして、今は射てこないのだろう？

　月明かりによって、自分たちの場所が丸見えになってるはずだ。

　背中を預けていた上官が突然動いたので、アレクシスはバランスを崩した。

「待て、この距離では当たらん……」

　上官が制止しようとした瞬間、急斜面を二つの影が駆け降りてきた。

　馬ほどの巨体を持つ獣だ——琥珀色の瞳、鋭い牙、人を引き裂く爪。

　それらは帝國兵に飛びかかり、巨大な爪で肉を裂き、人形のように投げ捨てていった。

　悲鳴がこだまする。

　濃厚な血の臭いが立ち込めた。

「うわぁぁ、俺の手が！」

「近づくな！ くるな！」

　兵士たちが後ずさる。だが前には味方の背中があり、銃を撃てない。

　指揮系統は瞬く間に崩壊した。

　混乱の中、アレクシスだけは空を見上げていた。

　一人の人影が降ってくる。体を大の字に広げ、悠々と。少年のような、少女のような顔立ち。

　アレクシスは息を呑んだ。

　あぁ、こいつが、白き魔女だ。

「抜刀——蒼天一抹」

　声が天から響く。

　少年が抜刀した瞬間、青白い炎と禍々しい瞳が闇に浮かび上がった。

　その瞳は少年の体ほどの大きさがあり、刀身を通して戦場のすべてを見下ろしている。

「上だ！」

「撃て、撃て、撃てぇ！」

　誰かの金切り声。

　だが、アレクシスの体は硬直して動かない。

　世界の色が、落ちる。

　悲鳴も銃声も、水の底から聞こえてくるように遠のいた。

　唯一鮮明なのは、目の前の白き魔女の姿だけ。

　少年は空中で刀を振るう。

　横一線。舞踊のように美しく、死を孕んだ動き。

　　空転　——　乱

　　直下　——　嵐

　　空気　——　蘭

　　斬り　——　濫

　　闇夜　——　攬

　　裂き　——　瀾

　　火狩　——　鸞

　呪文のような音律が降り注ぐ。

　響くたび、青い炎の目が一つ、また一つと開いていく。少年の周囲に七つの巨大な瞳が花弁のように咲き誇った。

　それらは瞬きもせず、獲物を選んでいる。

「蒼天一抹——殺すな」

　青い稲妻となった斬撃が、無数に降り注いだ。

　アレクシスのライフルが真っ二つに裂ける。

　同時に、背中を預けていた上官の体がガクンと崩れた。太腿の装備ごと足を断たれたのだ。

「ぐあぁっ！」

　アレクシスは泥濘んだ大地に足を取られ、上官と共に転倒した。

「うわぁぁぁぁ！」

　周囲で悲鳴が弾ける。

　青い刃の嵐は、触れるものすべてを両断し、血飛沫で大地を赤く染めていく。

「上官、あぁぁ」

「ぐぅ、逃げろ」

　アレクシスは上官の体を抱きしめてうずくまることしかできなかった。上官の血が頬にかかる。鉄の味が口の中に広がった。

　やがて、斬撃が止む。

　アレクシスの目の前に——。

　空から舞い降りた死神は、青い炎の目に包まれて着地した。

　七つの目が花びらのように消え、白き魔女が姿を現した。

　その顔に表情はない。

　翡翠色の瞳が、足元に落ちていた黒い眼帯へ向けられる。

　魔女は滑らかな動作でそれを拾い上げ、右目に嵌め直した。まるで戦闘の余韻すら感じていない、無造作な仕草。

　視線が、アレクシスに向いた。

「……」

　一歩、また一歩と近づいてくる。

　アレクシスの喉がひきつる。動けない。逃げられない。

　魔女の手が、自らの肩にかけていた襷へと伸びた。

　それを外し、アレクシスの足元へと放る。

「縛って、止血してください」

　流暢な帝國語だった。アレクシスの耳が意味を理解するのに数秒かかる。

「……え？」

「大丈夫です。致命傷の者はいません」

　魔女の声には感情の起伏がなかった。

　戦場の惨状を見ても、心が動いていない。

「俺の勝手なんですけど——誰にも死んでほしくないんだ」

　その言葉が慈悲なのか、侮蔑なのか、アレクシスには判別できなかった。

「————」

　魔女は皇國の言葉で短く何かを呼ぶと、踵を返した。

　先程兵士たちを襲った二匹の獣が、死角から駆け寄ってくる。

　アレクシスは震えながら、ただ見送ることしかできない。

　殺されると思った。

　なのに、自分は生きている。

　白き魔女は、もう振り返りもしなかった。

　獣に跨り、急峻な崖を平地のように駆け上がっていく。月光に白いマントが翻る。

　——あれは、本当に人間なのか？

　◇　　◆　　◇　　◆　　◇

　これは、白き魔女と呼ばれ、皇國の守護者となった少年——白桜蔭曉人（はくおういんあきと）の始まりの物語である。

　そして——時間は五年前のあの最悪な日に遡る。