第十一話 魔法の迷宮(ラビリンス)
夜が明けきらぬ早朝。森はまだ冷たい藍色に包まれていた。
カイルは、テントを畳み終え、中身を詰めた麻袋をテキパキと整頓していた。一つ一つの動作は、一分の無駄もなく、彼の内面の揺るぎない決意を示している。彼は、旅道具を詰めた麻袋の口を硬く結びつけ、きつく紐を締めた。
その隣で、モモがカイルの足元にちょこんと座り、ピンク色の毛並みを揺らしている。
「準備はいいわね、カイル。この旅は、あなたの『力』と、私の『知恵』、そしてリリアちゃんの**『命』**がかかっているのだから」
「ああ」
カイルは簡潔に返事をし、リリアが毛布にくるまっている方へ向かった。
リリアは、静かに目を覚ましていた。その表情は、相変わらず無垢な子供のそれだ。カイルが近づくと、彼女は毛布をそっと離した。
「さあ、掴まれ。リリア」
カイルは優しく言い、リリアの前で背中越しにゆっくりと屈んだ。その背中は、彼女の狂気と、この世界の絶望をすべて受け止める、岩のように固い決意に満ちている。
リリアは何も言わずに、カイルの背中にしがみついた。彼女の熱を失った頬が、カイルの首筋に冷たく触れる。その冷たさが、カイルの胸に「彼女を治す」という誓いを深く刻み込んだ。
カイルはゆっくりと立ち上がり、重みを背負ったまま、モモの方へ視線を向けた。
「さあ、行くわよ」とモモ。
「ああ」
カイルは再び簡潔に応え、足元の焚き火の残骸に、残っていた水を静かにかけた。ジュッという音と共に、白い水蒸気が立ち昇り、火は完全に鎮火する。彼は、この山小屋での**「狂気の聖域」**との決別を確認すると、一歩踏み出し、静かにその場を後にした。
木々の間を縫いながら、カイルは旅を続けた。
背中のリリアは、揺れに身を任せ、時折、道端の小花を見て無邪気な声を発する以外は、静かだ。
道中、モモの指導は休むことなく続く。
「立ち止まらないで。歩きながら考えなさい、カイル」
モモは、目の前の木の葉を、カイルが気づかないうちに風の魔法で切り裂いた。
「今の木の葉の音、聞こえた?あれは風による魔力の干渉音よ。もしあれが魔族の斥候の足音だったら、あなたは今、リリアちゃんを背負ったまま、真っ先に標的になっていたわ」
カイルは、言われて初めて、その僅かな音の変化に気づき、冷や汗を流す。
「どうすれば気づけるんだ?この森は、音と匂いが複雑すぎる」
「あなたの**『力』は巨大よ。だからこそ、その力を外に放出するのではなく、『聴く』ことに使いなさい。魔力を身体の表面に薄く纏わせ、周囲の微細な変化を捉える。そうよ、あなたの力は、『熱感知』や『音の増幅』**にも使えるはずよ」
カイルは言われた通りに試みたが、すぐに頭が重くなり、魔力の使い方に慣れないため、目の前が一瞬歪む。
「ぐっ…難しいな」
「難しい?あなたは、愛する者を背負っているのよ。難しくてもやるの。これが、私が言う**『大数の法則の克服』よ。闇雲に歩く回数を増やせば、いずれ敵に遭遇する。しかし、『知恵』**を増やせば、敵に遭遇する確率はゼロに近づく」
カイルはモモの指導に従い、一歩一歩、その魔力を「視覚」や「聴覚」へと変換する試みを続けた。リリアの無邪気な笑い声だけが、カイルの心を支える唯一の慰めだった。
深い夜の森。川辺で焚き火を熾した簡素なキャンプサイトは、音もなく静寂に包まれていた。
焚き火の残火が、パチパチという小さな音を立てて、周囲を赤く照らす。
リリアは、毛布にくるまり、まるで何もかもを許したかのように穏やかな顔で、その火を見つめている。
カイルは、燃え尽きた魚の串を片付け終えると、モモの前に正座した。
「いいわね、カイル。町までは一週間の道のり。その間に、あなたは**『大魔導士の知恵』**を手に入れなければならない」
モモは、その小さなピンク色の手を上げ、焚き火から小さな燃え差しを一つ、宙に浮かせてみせた。
「今のあなたは、その程度のものは簡単に作れるでしょう。でも、問題はその**『使い方』**よ」
「使い方?」
「そうよ。カイル」モモの声は冷徹だった。「あなたの魔力は増大した。しかし、あなたはまだ、巨大な岩を壊すことしか知らない。私たちは今から、町に潜入し、魔族を欺き、リリアちゃんを大賢者様の元まで連れて行かなければならない。巨大な炎は目立つ。だからあなたは、巨大な岩ではなく、小さな一点を、正確に焼き尽くすことを覚えなさい」
モモが掲げた小さな燃え差しは、宙で不規則に揺れていた。
「いい?あなたの目標は、その燃え差しを、針のように細い炎の束で、完全に蒸発させること。炎を爆発させるのではないわ。魔力を極限まで集中させなさい」
カイルは姿勢を正し、モモの指示通りに手のひらを燃え差しに向ける。
「炎よ!」
彼は魔力を絞り出す。ゴオッと、荒々しい炎の塊が手のひらから噴き出したが、燃え差しに当たる直前で、カイルの制御を離れ、周囲の木の枝を焦がした。
「ぐっ……ダメだ。集中しようとすると、逆に制御が効かなくなる」カイルは苛立ち、荒い息を吐いた。
「魔力をもっと集中して」モモは鋭く指示した。「あなたは今、自分の『命』を炎に変えようとしている。それは、ルナ様と同じ、野蛮なやり方よ。あなたは魔力を**『呼吸』**のように扱いなさい。強く吸い、静かに吐き出す。あなたは、守るべきものを背負っている。無駄に力を消費する権利はないわ」
モモの言葉は、カイルの心臓に突き刺さった。そうだ、自分の力はもう、自分だけのものではない。
カイルは目を閉じた。荒れていた呼吸を整え、モモの言葉通り、体内の魔力をゆっくりと吸い上げるイメージを抱く。集中力を高めるため、彼は意識を背後のリリアに向けた。
リリアは、相変わらず静かに焚き火の残火を見つめている。彼女の表情には、一瞬の不安も、狂気の影もない。ただ、カイルがここにいるという、純粋な信頼だけが宿っている。
(この笑顔を曇らせる力は、全てを焼き払う大きな炎じゃない。この笑顔を守り抜くための、必要な最小限の知恵だ)
カイルは目を開けた。彼の瞳には、焚き火の炎が反射して揺れていた。
「……エア・ムーブ」
彼は炎ではなく、風の魔法を選択した。その風は、一筋の細い糸のように手のひらから走り、燃え差しへと向かう。風は、燃え差しの表面を撫でるように、余分な熱と水分だけを極限まで削ぎ落としていった。
燃え差しは、炎に包まれることなく、内部の水分を一気に失い、白い灰となってパラパラと崩れ落ちた。まるで、何十年もの時が一瞬で過ぎ去ったかのようだった。
「ッ……やったのか?」カイルは驚きながら、自分の手のひらを見つめた。炎の熱は感じない。
モモは、ピンク色の尾をゆっくりと揺らした。
「そうよ。カイル。それが知恵というもの。あなたは今、無駄な魔力を使わず、**『乾燥』**という物理的な力で対象を破壊した。その針のようなコントロールこそ、魔族の知恵と力を欺く、あなたの新しい武器よ」
モモは、カイルの足元に転がっていた小さな石ころを蹴り上げた。
「次は、その石を、風の力で**『止める』。そして、炎の力で『持ち上げる』**。あなたの魔法は、もはや一つの属性に縛られる必要はないわ」
カイルの特訓は、夜明けまで続いた。背後のリリアの穏やかな寝息と、モモの冷徹な指導だけが、森の静寂の中に響き渡っていた。
深い夜の森。川辺のキャンプは、静かに燃える焚き火の光に包まれていた。
一週間以上の旅路で、カイルの体つきは引き締まり、その瞳には、かつての**「感情的な力」ではなく「冷徹な知恵」**が宿っていた。
リリアは毛布にくるまり、いつものように穏やかな顔で焚き火を見つめている。カイルは、モモに教わった通り、周囲の微細な音を探る**『聴覚の魔法』**を張り巡らせていた。
「もういいわ、カイル」モモが声をかけた。
カイルは張っていた魔力を緩め、姿勢を正した。
「すごいわ。カイル」モモは目を細め、心からの賞賛を口にした。「こんな短期間の間によくここまで成長できたわね。あなたは、私の教えた**『最小の力で最大の効果を得る知恵』**を完全に吸収したわ。特に、**風と炎を組み合わせた『乾燥の針』**のコントロールは、私が見てきた中でもトップクラスよ」
「へへへ」カイルは、照れて頭をかく。しかし、その顔には、命がけで知恵を掴み取った者の確かな自信があった。
「明日はいよいよ町に到着するわ」
モモは、焚き火の光を浴びながら、ピンク色の毛並みを揺らした。
「そして、この旅の指導者として、私から卒業のプレゼントをあげる」
モモはニッコリと微笑むと、目を閉じ、その小さな身体に魔力を集中させた。周囲の光の粒子が、モモの頭上へと集まっていく。カイルは息を呑んで見守った。
次の瞬間、集まった光が強烈な青白い輝きを放ち、その光の中から、一本の**『魔法の杖』**が音もなく現れた。
それは、ただの木製ではなく、古代の木材に金色の細い装飾が施された、繊細でありながら力強い杖だった。杖の先端には、澄んだ水晶玉が埋め込まれ、モモの魔力を反射して静かに光っている。
「これをあなたにあげるわ」
モモは、空中に浮いている杖を、カイルの前に差し出した。カイルは両手を伸ばし、慎重にその杖を受け取った。杖を握った瞬間、手のひらから微かな魔力の奔流が流れ込み、カイルの全身の魔力が、杖を通じて共鳴するのを感じた。
「あなたはこれまで、自分の**『命の力』**をそのまま魔法に変えていた。魔法使いの武器を持たずに魔法を使うのは、手づかみで炎を扱うようなものよ」
モモは、杖の役割を説明した。
「この杖は、あなたの魔力を制御し、**『知恵の針』**を研ぎ澄ますための媒介よ。これを使えば、あなたの魔法はもっと研ぎ澄まされて強力になるはずよ」
カイルは手にした魔法の杖を、改めて焚き火の光で眺めた。杖は、彼の手に馴染むと同時に、彼の内に秘められた**「宿命の刻印」**の魔力を、静かに、そして正確に引き出し始めるのを感じた。
リリアは穏やかな顔で焚き火を見つめている。その無言のまなざしは、カイルの成長を無言で祝福しているようだった。
「ありがとう。モモ」
カイルは、感謝の言葉と共に、杖を強く握りしめた。彼の瞳は、明日から始まる町での最大の試練――恐怖と魔族との対決、そしてリリアを救うという**「愛の義務」**――をまっすぐに見据えていた。
モモから授かった魔法の杖を受け取ったカイルは、感謝の言葉と共に、杖を強く握りしめた。彼の瞳は、明日からの試練、魔族との対決をまっすぐに見据えている。
「じゃあ、明日に備えて今日は寝るとするか」とカイル。
モモは、その成長に満足したようにニッコリ微笑んだ。
その時だった。
カイルが麻袋の傍に置いていたルナのノート(魔法の書)が、突然、強烈な金色の光を放ち始めた。
ノートは光に包まれて宙に浮き上がり、パラパラと激しい勢いでページがめくられていく。そのページからは、カイルがこれまで見たこともない、複雑で美しいルーン文字が次々と飛び出し、夜の森を照らし出した。
「な、なんだこれは――」とカイルは驚愕し、杖を構えた。
「もしかして、これは――」モモは、その光景に驚きながらも、どこか既視感を覚えたように小さく呟いた。モモの小さな瞳には、ルナの残した「知恵」の真の姿が映っているかのようだった。
次の瞬間、その金色の光が、辺り一帯を飲み込むほど強力な輝きへと変わる。カイルとリリアは、その光に完全に包み込まれた。
光が晴れると、カイルは足元に硬い感触を覚えた。
そこは、周囲に景色が何もない、完全に真っ暗な空間だった。足元の地面と、自分とリリアの姿だけが、ぼんやりと光って見える。モモの姿はない。
「何かしらここ」
隣から、透き通るような、しかししっかりとしたリリアの声が響いた。カイルは心臓が止まるかのような衝撃を受け、弾かれたようにリリアの方を振り向いた。
リリアは、無垢な子供の表情ではなく、以前町で見た、聡明さと優しさに満ちた大人のリリアの顔をしていた。
「リリア――。治ったのか」
カイルは安堵と喜びで顔を歪ませ、彼女の名を呼んだ。
「わからない」とリリアは返事を返す。彼女は自分の状況を理解できていないようだが、混乱はしていない。「さっきまでカイルと一緒に焚き火を見ていたはずなのに……」
その時、どこからともなく、モモの焦燥感に満ちた、しかし冷静な声が、空間全体に響き渡った。
『カイル。よく聞いて。』
『そこは、ルナ様が残した**「魔法の書」が作り出した魔法の迷宮(ラビリンス)**よ。私は外にいる。この魔法は、私をあなたたちから隔離したの』
「モモ!どうすれば抜け出せるんだ?」カイルは叫んだ。
『その世界から抜け出すには、二人で力を合わせてその先のボスを倒す必要があるわ。』
「ボス?」とカイルは驚愕する。「一体何のボスなんだ?」
『今のあなたならきっと倒せるはず。これは、私との修行の成果を発揮する、最後の卒業試験よ。知恵を使いなさい!』
モモの声は、カイルに最後の助言を与えるように続けた。
『あと、その空間では一時的にリリアちゃんの心の病は治ってるようね。』
『魔法の書の不思議な魔法が、この世界では彼女の精神の鎖を一時的に解いているのかしらね。リリアちゃん、あなたもカイルを助けてあげて』
モモの語りが終わると同時に、周囲の空間が揺らぎ始め、モモの声は聞こえなくなった。
真っ暗だった空間に、徐々に景色が現れる。それは、古びたレンガで作られた、暗く狭い迷宮だった。二人はその迷宮の中に立っている。
レンガの隙間から、湿った空気が流れ込んでくるのを感じる。迷宮は、最初の一瞬は明るかったが、急速に光を失い、深い闇に包まれようとしていた。
「カイル!暗くなるわ!」リリアが焦りの声を上げた。
カイルは杖を構えるが、炎を放てば迷宮の中で目立ちすぎる。モモに教わったばかりの「知恵」を瞬時に思い出すが、光がなければ何もできない。
その瞬間、カイルの傍で、リリアが静かに目を閉じ、何かを唱えた。
「我が心に宿る光よ、闇を退け」
彼女の手に、何の媒介もないまま、眩い光の玉が灯った。光はリリアを中心に数メートル先までを、数秒で完全に明るく照らし出し、迷宮の壁と床をくっきりと映し出した。
リリアは、何も持たない自分の手に灯った光を見て、驚きながらも静かに微笑んだ。
「大丈夫よ、カイル。私、なんだかこの魔法、知っているわ」
カイルは、リリアの治癒と、その能力の開花に、安堵と、新たな驚きを同時に感じた。
「そうか。リリア……ありがとう」
彼は、初めて手にした杖を強く握りしめた。知恵を身につけたカイルと、光を灯したリリア。二人は、目の前に広がる暗い魔法の迷宮へと、踏み込んでいった。
悪しき摂理の生存者たち 黒瀬智哉(くろせともや) @kurose03
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