第六話 夫婦の誓い、砕ける現実

 早朝、山小屋の古木の壁にこだまする**「トントントン」**という、どこかぎこちない規則的な音で、カイルは目を覚ました。


 古木の壁の隙間から差し込む朝の光はまだ冷たいが、鼻腔をくすぐるかすかな湯気と、遠くで焦げ付くような微かな匂いが、カイルを寝台から引き起こした。


 カイルが身動ぐと、そばに丸まっていた白い毛玉のようなシロが「ニャア」と小さく鳴き、彼の足元に擦り寄った。シロの小さな体温が、カイルの足に優しく伝わる。


「…リリア、か?」


 カイルが台所へ向かうと、薄い布のエプロンを身に着けたリリアが、古い釜の火を懸命に調節していた。彼女は膝立ちで火を覗き込み、頬を赤くしている。その真剣な後ろ姿は、どこか小さな**『家庭の主』のようだ。彼女が作り出す音が、この閉ざされた空間に『生活』**という確かな実感を呼び戻していた。


「おはよう、リリア。朝食作ってるのか?」カイルは寝ぼけ眼を擦りながら尋ねた。


 リリアは火から顔を上げ、驚いたように瞳を輝かせた。その輝きは、山小屋の暗闇を打ち破る、朝日のように明るかった。


「ええ、そうよ。あなた」


 その言葉に、カイルは昨夜からの奇妙な感覚を思い出し、耳の裏が熱くなるのを感じた。


「ん?なんだ、その『あなた』ってのは?急にどうしたんだ?」


 リリアは釜の火から視線を外し、カイルに向き直った。彼女の目には、照れと、**『背伸び』**をしようとする強い決意が宿っている。


「だって、私たち、この家で夫婦になる約束をしたんでしょう?夫婦は、そう呼び合うものなのよ。早く顔を洗ってきなさい。すぐにできるわ」


 カイルは「夫婦かよ……」と頭をかいた。リリアの健気な背伸びは、過酷な状況を忘れさせてくれる、砂糖菓子のような温かい光景だったが、カイルにはどうにも気恥ずかしかった。その優しい違和感が、彼らの新しい日を始めた。



 カイルが冷たい水で顔を洗い終え、台所に戻ると、小さなテーブルには湯気の立つお粥が二つ並んでいた。シロは床で大人しく座っている。


「さあ、カイル、食べてちょうだい。この山小屋にあった古い料理のメモを頼りに作った、特製薬草粥よ」


 カイルはスプーンを手に取り、恐る恐る口に運んだ。お米はなんとか炊けているが、具材として入っている野草が、予想以上に苦い。そして、塩の分量を間違えたのか、全体がひどく塩辛い。


「…う、うまい、よ。リリアが作ってくれたんだから」カイルは精一杯の笑顔を作り、ごくりと飲み込んだ。「すごく…体によさそうな味がするな!」


 リリアはカイルの言葉を真に受け、「そうでしょう?」と得意げに笑い、自分の分のお粥を一口食べた。


 その瞬間、リリアの顔が一瞬にして凍りついた。可愛らしい眉が八の字になり、口元がピクリと引き攣る。


(なんて…なんてひどい味なの!?)リリアは内心で叫んだ。(私が、あなたに作ってあげた初めての朝食が、こんなにもひどい味だなんて!)


 しかし、カイルが頑張って食べているのを見て、リリアはすぐに顔を引き締め、大人のフリを貫いた。


「ええ、とても体が温まるでしょう?少し薬草の味が強いけれど、栄養満点よ」


 カイルはリリアが動揺していることに気づきながらも、リリアの健気なプライドを守るため、「うん、これで今日も頑張れるぞ!」と、苦い顔を隠して完食した。


 食後、リリアが立ち上がり、小さな食料庫の扉を開けた。カイルはそこで、現実に引き戻された。


「…もう、ほとんどないわ」リリアは空っぽの棚を指差した。「お米も、あの量で最後。残っているのは塩と、この苦いハーブだけよ。私たち、すぐにでも食料を確保しなければならないわ」



 愛の(そして塩辛い)朝食を終えた後、山小屋の空気は一変した。



 カイルが席を立とうとすると、リリアは彼の前に座ったまま、静かに手を広げて制した。テーブルには、リリアが描いたメモの写しと、空っぽになった食料庫の写真(想像図)が並べられている。シロは、二人の間に漂う緊張感を察してか、静かにカイルの足元に丸まった。


「座って、カイル」リリアの声は、いつになく真剣で厳しかった。


 カイルは、リリアの様子に少し怯えながらも、椅子に座り直した。


「私たちは、もうここで子供の遊びはしていられないわ」


「備蓄は、今日で終わりよ。お米もハーブもほとんどない。残っているのは塩だけ。このままでは、飢えてしまうわ」


 リリアは次に、暖炉を見た。火はまだ残っているが、薪の山は心もとない。


「暖炉の薪も、もう乾いた木が少しだけ。火がなければ料理も暖房もできない。それに、あの沢まで水を汲みに行くのも、私一人では無理よ」


 リリアは一つ一つ、感情を交えずに、しかし冷徹な現実を突きつけていく。


「つまり、食料、燃料、水の確保が、私たちの最優先事項よ」


 そして、リリアは強い眼差しでカイルを見据えた。


「だから、役割を決めなければならない。あなたの『力』と、私の『知識』を、最も効率的に使うために」


 リリアは、カイルの役割を定めた。


「カイル。あなたには、この家を支える大黒柱になってもらうわ」


「な、大黒柱?」


「ええ。重い斧を振り、冷たい沢まで水を運ぶ。山小屋の周囲を護衛し、私たちを守る。それは、私にはできない、あなたの役割よ。あなたの、力が必要なの」


 カイルの胸に、リリアからの信頼と、**「男として期待されている」**という熱い感情が湧き上がった。


「分かった!俺に任せろ。力仕事は俺が全部やる。リリアとシロは俺が必ず守るからな!」


 カイルの力強い返事を聞き、リリアは次に自分の役割を告げた。


「ありがとう、あなた。私の役割は、知識と知恵よ。本を読み、山で食べられるものを探し、食料を確保する。そして、備蓄品やこの山小屋の道具を管理する。これが、私の役割よ」


 二人は、**「力」と「知恵」**という、互いの得意な分野を認め合った。


 リリアは静かに微笑んだ。「ええ、その意気よ、あなた。信頼しているわ。だから、あなたは安心して、力に集中して」


 カイルは照れながらも頷いた。「ああ!任せとけ!」


((チクショウ、『あなた』って呼ぶなよ…でも、なんか、嫌じゃないんだ。リリアが俺を**『家族の柱』**として頼ってくれてるんだからな))


 こうして、二人は過酷なサバイバルを生き抜くための、最初にして最も重要な**「夫婦の誓い」**を交わした。



 リリアは、カイルを追いかけるように小さな本棚へ向かった。山小屋に残されていた記録にあった通り、実用的な本が数冊見つかった。


 リリアは最も厚い一冊、『山での生活術』を手に取る。その隣には、奇妙な繊維でできた古いノートがあった。ノートの表面はひんやりとしており、インクは不自然に薄れているが、かろうじて読める汚い文字で**「ルナ」**と記されていた。


 リリアはそれを本に挟み込むと、静かに言った。「あら?ルナ様と同じ名前の、別の子供の日記かしら。こんな汚い字、ルナ様が書くはずないわ。」


 一方、カイルは薪割り台へと向かう。そこには、切り株に深く突き刺さったままの斧があった。カイルは両手で斧の柄を掴み、渾身の力で引き抜こうとしたが、斧はびくともしない。**「早く薪を割って、食料を探さなきゃ」**という焦燥感だけが、彼の心を燃やしていた。


 焦り、体重をかけ、様々な方法で試すが、斧は動かない。


「クソッ!」


 リリアとシロを守りたいという焦りから、カイルは無我夢中になった。そして、リリアの「あなた」という言葉と、「大黒柱」としての期待を思い出す。**「俺が、俺がリリアとシロの柱になるんだ!」**と強く願った瞬間、渾身の力を込めて引っ張り上げた。



ギィッ…



 斧は古びた音を立てて、切り株から引き抜かれた。カイルの小さな手のひらは、斧の柄で赤く擦り切れていた。彼は血を拭う間もなく、斧の刃を見つめた。「これで、まず火は守れる」。


 その時、本を抱えたリリアがカイルの傍に駆け寄った。リリアは手に持った本を掲げた。


「カイル!見て!本棚にあったの。まだ全部は読めていないけれど、私たちが生きるために必要な知恵がたくさん詰まっているわ!」


 リリアは興奮気味に、挟んでいた古いノートを指さした。


「これを見れば、山小屋の秘密や、食料の場所が分かるかも!あなたが力仕事で頑張ってくれるなら、私はこの知識で頑張る。だから、安心してね!」


 カイルは息を切らしながらも、リリアの真剣な瞳を見た。しかし、彼には**「知識」よりも「現実」**が重くのしかかっていた。


「知恵か……わかった。でも、そんなことより、今は早く食い物のこと考えろよ!」カイルは斧を握りしめ、強い口調で言った。「俺は、この斧で、すぐに森へ行って、まず食料を探してくる。リリアは、その知識を早く、食料に役立ててくれ!」


 カイルの真剣な言葉に、リリアは言葉を失った。リリアが求めた**「知識」は、カイルが求める「即効性」**には敵わない。二人の役割の重みが、ここで明確に分かたれた――。



「よし、分かった。じゃあ俺は早速、薪と食料を探しに行ってくる!」



 カイルは、リリアが持つ知識よりも、今すぐ行動で示す自分の力に賭けたかった。リリアは心配そうに言った。「待って、あなた。私も一緒に行くわ。」


「大丈夫だ!リリアはここで、その本を読んでいてくれ。俺がいない間に、たくさん知識を身につけておいてくれよ。薪と食料は、俺が探してくるから!」カイルはそう言い、リリアに心配をかけまいと、わざと明るい声を出した。彼は斧を背負うと、リリアの制止も聞かずに森の奥へと駆け出した。


 リリアはシロと共に、不安な気持ちでカイルを見送った。



 ――深い森の中は、山小屋周辺とは全く違っていた。


 太陽の光は分厚い樹冠に阻まれ、地面は湿った土と腐葉土の匂いに満ちている。カイルは斧を握る手に力を込めたが、一歩踏み出すごとに、得体の知れない静寂と異様な空気が肌を粟立たせた。


 カイルは斧を抜くことはできたが、薪割りは依然として難航していた。子供の力では、太い丸太はびくともしない。焦りが、彼の恐怖を助長する。


「リリアは山小屋で、俺のために頑張っているんだ。あいつは、俺を**『大黒柱』**だって信じてくれたんだぞ。俺が、ここで弱音を吐けるか…!」


 カイルは**「リリアを待たせている」**という焦りから、無茶を重ね始めた。斧を振るう労力に見合う薪が手に入らない。まともな食料も見つからない。


「リリアが頑張っているのに、俺が手ぶらで帰れるか!」


 焦燥に駆られ、カイルは滑りやすい沢の岩場に足を踏み入れ、キノコを採ろうとした。足場は苔むして不安定だ。


 その瞬間、体がふわりと浮いた。足を滑らせたのだ。



ドン!



 岩に激しく体を打ち付けたカイルは、口の中が血の味で満たされ、強い痛みに息を呑んだ。何とか立ち上がろうとするが、脚をひどく捻挫しており、激痛で体重をかけられない。さらに、手のひらを岩の鋭い角で深く切りつけていた。



(…動けない。クソッ。俺は、リリアを守るどころか…)



 体の痛みよりも、リリアに**「無力な姿」**を見せてしまうことへの恐怖と絶望が大きかった。


 カイルは、辛うじて集めた少量のキノコと木の実をポケットに詰め込んだ。それが、この無謀な冒険の、あまりにも小さな成果だった。血と泥に塗れた姿で、彼は**「リリア、シロ…」**と小さくつぶやきながら、痛みに耐えて山小屋への帰路を辿った。その道のりは、永遠にも感じられた。



――


――――


―――――――



 夕暮れ時、山小屋の戸が開く音に、本を読んでいたリリアが振り向いた。


 血と泥に塗れ、痛みに顔を歪ませるカイルの姿を見たリリアは、悲鳴を押し殺し、抱えていた本を床に落とした。その瞳が、恐怖と絶望に染まる。



「あ、あなた…!」



 リリアが駆け寄ろうとするのを制し、カイルはかろうじて踏みとどまった。彼は、リリアに弱みを見せないという最後の矜持を保ちたかった。


 カイルは、リリアの前に、わずかなキノコを差し出すのが精一杯だった。彼の脚は、もう限界だった。



「リ、リリア…なんとか、これだけ…」



 リリアは差し出されたキノコには目もくれず、すぐにカイルの怪我に集中した。


「馬鹿!そんなものはいいわ!なぜ、なぜこんな無茶を…!」リリアの瞳から涙が溢れた。カイルの怪我と、空の食料庫という、逃げようのない現実が、小さな二人を包み込んだ。



(ちくしょう…!俺が、俺がこんな場所で動けなくなるなんて…!リリアを大黒柱として守るって決めたのに、全部俺のせいだ。この先、食い物も、薪も、水もない。このままじゃ、リリアまで…)



 カイルは激しい後悔と、この閉ざされた空間での未来への底知れない恐怖に打ちのめされた。彼の体はもう、一歩も動けない。これからリリア一人に、すべての重圧を背負わせるという負い目が、彼の心臓を締め付けた。


 リリアは深く息を吐き、涙を拭った。その表情は、先ほどまでの動揺を押し殺し、決意に満ちていた。


「もういいわ。カイルはもう休んでて。あとは私が頑張るから」


 リリアの言葉が、カイルの胸にナイフのように突き刺さる。彼は必死に立ち続けようとしたが、体幹の力が抜け、ふらりと倒れそうになった。



「カイル!」



 リリアは素早くカイルに駆け寄り、彼の腕を自分の小さな肩に回した。リリアの細い体が、血と泥に塗れたカイルの体を支える。


 そのまま、リリアは彼をベッドまで連れて行き、そっと横たわらせた。


「ほら、ゆっくり休んでて」


 リリアは優しく彼の額に手を当てた後、ゆっくりとベッドから離れた。彼女はすぐにデスクに向かい、血と泥が付かないように注意しながら、**『山での生活術』**の本を広げた。その背中は、疲れ切っているのに、全てを一人で背負う決意に満ちていた。


 カイルは、リリアの後ろ姿を涙で滲ませながら見つめた。(ごめん。リリア…)役に立てないどころか、逆にリリアの負担になったという激しい自己嫌悪と無力感に襲われ、彼は声を出さずに静かに悔し涙を流した。リリアを救うどころか、自分が彼女を追い込んでいるという現実が、カイルの心を深くえぐった。



 リリアは本を開いたものの、文字が頭に入ってこない。カイルの怪我、そして空の食料庫。不安に耐えきれず、彼女は立ち上がり、小さな窓辺へ向かった。


 窓の外はすっかり夕闇が迫っていたが、その空の色は異様だった。西の空一面が鉛のような濃い灰色に覆い尽くされ、山に不気味な影を落としている。


 リリアがその方角を見つめた、その時だった。



ゴロゴロゴロ……



 低く、長く、地響きのような雷鳴が山小屋全体を震わせた。それは、この山が、森が、自然が、二人を歓迎していないことを告げているようだった。


 リリアは窓の桟をぎゅっと握りしめた。これから彼女一人で、病人と、食料と、そしてこの雷雨かもしれない自然の脅威に立ち向かわなければならない。



(ルナ様……)



 リリアは、強く凛々しい女剣士の姿を頭に思い浮かべた。


「私たち、これからどうなっていくの?」


 リリアの唇から漏れたその言葉は、誰に届くこともなく、迫り来る雷鳴の音と、山小屋の静寂の中に吸い込まれていった。彼女の瞳には、夜の帳と、明日への深い不安と、微かな決意の光が揺れていた。


 ――第六話 完――

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