第三話 愛の記憶、心の防壁

 ルナは、酒場での敗北の後、街の地下深くにある魔族の牢に投げ込まれていた。


 そこは光も届かない湿った石の部屋で、彼女の周りには鎖や血痕が残っていたが、ルナ自身は手枷足枷を嵌められていない。グラキスはルナを殺すのではなく、「希望」の象徴を徹底的に打ち砕くために、敢えて自由な空間に放置したのだ。


 しかし、自由はルナにとって最大の苦痛だった。グラキスの一撃で負った深手、肋骨のヒビは治療されず放置され、動く度に激痛が走る。彼女の鍛え抜かれた身体は、今や動くことを拒否する、ただの重荷だった。


 牢の前には、ルナを見張る下級の魔物が常に立っている。彼らはルナの傷を治すどころか、汚水をかけたり、小さな石を投げつけたり、常に下卑た視線を浴びせる。


「おい、英雄の弟子。起き上がれよ。そんなところで丸まって、みっともねえな」


 魔物の一体が、ルナの前に立ちはだかり、汚い言葉を投げつけた。


「死んだ師匠も草葉の陰で笑ってるぜ。最後の最後で剣を置くなんて、臆病者だったってことだ。所詮、白マントなんて、その辺の血塗れの雑巾と変わらねぇ」


 魔物はそう言い放ち、汚れた床を蹴って、ルナの目の前で大きな笑いを上げた。


 ルナは、静かに膝を抱え、動かない。全身の痛みが彼女を拘束している。しかし、その瞳の奥には、昼間にグラキスに向けたものとは違う、静かだが燃えるような怒りの炎が宿っていた。


 魔物はさらにルナの怒りを煽る。


「あの英雄アルトリウス様は、最期は命乞いをしたそうだ。地面を這いつくばって、泣き喚いて……ああ、いいぞ! 貴様も泣けよ! 貴様は誰にも愛されなかったみなしごだ。誰も貴様の死を悲しまない」


 その言葉が、ルナの心の防御壁を決定的に打ち砕いた。


 肉体の痛みよりも鋭い、魂を抉るような激痛に、ルナは耐えきれず、叫びをあげた。


「その口を閉じろ……!」


 ルナは立ち上がろうと、床に手をつく。しかし、身体は激痛に抗えず、再び床に崩れた。その瞬間、悔しさと無力感から、ルナの頬を一筋の涙が伝った。


 魔物たちは歓喜の声を上げる。


「ハハハハ!見ろ! 英雄の弟子も、最後はただの泣き虫な女だ!」


 屈辱と無力感に打ちのめされ、ルナは床に顔を押し付けたまま、意識を遠くへ手放した。



 ルナの意識が最初に逃げ込んだのは、現在の惨めな状況とは真逆の、光に満ちた最も幸福な朝だった。



 ――宿屋の質素な部屋。窓から差し込む朝日の光が、二人の裸の肌を優しく照らしている。シーツは乱れ、ルナは師であるアルトリウスの腕の中で目覚めた。


 アルトリウスは、世間が知る冷徹な英雄の顔ではなく、一人の優しい男の顔をしていた。彼は愛おしそうにルナの髪を撫で、傷つきやすい剣士の身体を、愛の行為によって解放してくれた。


 ルナは、肉体的な安堵と魂の繋がりを感じながら、アルトリウスの胸に顔を押し付けた。


 行為の後、二人は言葉を発さず、ただ静かに互いの存在を確認し合っていた。そして、アルトリウスは静かにルナの目を見つめ、感謝を込めて優しく口づけした。


 愛の静寂が満ちた後、アルトリウスは静かに口を開いた。


「よし、ルナ。約束通り今日からお前に剣術を教える」


 その言葉に、ルナの瞳は輝き、全身に歓喜が走った。長年の願いが叶った瞬間だった。


「はい! ありがとうございます!」


 ルナは、アルトリウスを抱きしめ、喜びを爆発させた。しかし、アルトリウスの瞳の奥には、愛と同時に、愛する者を危険な道に導くことへの深い覚悟と、迫りくる運命への憂いが宿っていた。



 ――時間はさらに遡り、少女ルナとアルトリウスの「旅のお供」の時代。



 夜のキャンプファイアで魚を焼くアルトリウスの姿。ルナは、剣士のアルトリウスではなく、一人の人間としての彼を見つめていた。その日常の風景が、ルナの荒んだ心を少しずつ溶かしていく。


 そして、ある日の訓練中。少女ルナは夢中で剣を振るうあまり、深く転んで膝を擦りむいた。痛みをこらえ、涙を流すまいと必死に地面を見つめるルナ。


 アルトリウスは剣を置き、薬草を取り出すと、ルナの小さな膝を優しく押さえながら治療を始めた。


「……大丈夫。すぐに治るから」ルナは震える声で言った。


 アルトリウスは、治療をしながら優しく語りかけた。


「痛かったな。傷は、外側だけじゃない。心にも、見えない傷ができる」


「大丈夫です。私は、もう泣きません」


「すぐに治らなくても、いいんだ。大切なのは、傷を隠すことじゃない。 傷を、忘れないことだ」


 アルトリウスの温かい手の感触と、その言葉は、ルナにとって**「力」よりも大切な、愛と優しさの記憶**として刻まれた。



 ――さらに時間は遡り、すべてが始まった日。



 月夜の晩。川のほとりで、少女ルナは両親の死を前に、ただ涙を流していた。彼女の身体は、泥と血と、深い絶望にまみれている。


 そこへ、白マントを翻した英雄アルトリウスがやってきた。


「どうしたのかな?こんな時間に少女が一人で」


 アルトリウスは優しく声を掛けたが、ルナの瞳に宿るのは、悲しみではなく、復讐の炎だった。


 ルナは、事情を説明した後、哀願ではなく、切実な意志をもって訴えた。


「剣術を教えてください。私に、魔物に打ち勝つ力をください」


 アルトリウスは、ルナの復讐心を読み取り、その残酷さを知っていたため、一度は静かに申し出を断る。しかし、ルナは諦めなかった。


「弟子ではなく、旅のお供にしてください! あなたの背中を見て、生きる術を盗みます。一人で死ぬくらいなら、あなたと共に、魔物を追う道を選びます」


 アルトリウスは、ルナの瞳の強い光を見て、この少女の命を救うには、この道しかないと悟った。


「……いいだろう。だが、私は君の師ではない。私は剣は教えない。私の背中を見て、生き残る術を学びなさい」


 こうして、ルナの孤独な旅と、**「力による正義」**への渇望が始まった。



 回想は、17歳の月夜の稽古へと戻る。月光の下、二人は剣を交わし、愛と覚悟を確かめ合う。英雄の指が、汗で濡れたルナの髪を撫でる温かい感触。


 その温もりが、突然、地下牢の冷たい石床の感触へと切り替わる。ルナの意識は、現実に引き戻された。


 身体には激痛が走り、汚物と血の臭いが鼻をつく。しかし、彼女の心は、もはや魔物の嘲笑によって支配されてはいなかった。


 ルナは、微かに差し込む月光を見つめながら、静かに、誰にも聞こえない声で語りかけた。


「アルトリウス様…」


 彼女の頬から一筋の涙が溢れた。それは、屈辱の涙ではない。


 愛する師の教えと、自分たちの愛の記憶は、魔物たちが奪おうとした**「白マントの誇り」**よりも遥かに強く、清らかであるという、魂の尊厳の勝利を意味する誓いの雫だった――。




 リリアは、自分たちが住む教会の裏手、静かな一室にいた。部屋の隅には、先日魔族に連れ去られた子猫シロの**小さな木のゲージ(小屋)**が、静かに置かれている。


 リリアは、そのゲージの前で膝を抱え、ただ静かにそれを見つめていた。シロを失った悲しみと、第一話でカイルの命を守るために**「もういい」**と叫んだ、自分自身の行為への罪悪感が、彼女を押しつぶしそうになっていた。


「シロ……」


 彼女の瞳から、一筋の涙が溢れた。ルナの犠牲が、この罪悪感をさらに重くのしかからせる。(ルナ様も、私たちがこれ以上酷い目に遭わないように、剣を置いたの?)


 その時、背後で戸口が小さく開く音がした。


「リリア。まだこんなところにいたのか」


 カイルが、腹部の痛みをこらえながら部屋に入ってきた。彼はリリアの背中と、ゲージを見て、彼女の気持ちを悟った。感情はただ身を滅ぼすと確信し、冷たい現実の色を帯びていた。


「もうシロのことは忘れろ。あれは終わったことだ」


 リリアは、その冷たい言葉に、再び涙が滲むのを感じた。


「でも……あの後、シロがどうなったのか、誰も知らないでしょう? きっとどこかで生きてるはずよ……」


 それは、リリアにとって唯一残された心の光だった。しかし、カイルは自身の無力感から、敢えて最も残酷な現実を突きつけた。


「そうか? もう魔物に喰われたんじゃないのか?」


 リリアの顔から一瞬で血の気が引いた。「え、そんな―。」彼女の顔は、あまりにも純粋な哀しみに満ちていた。


 その表情を見た瞬間、カイルは自分の言葉の冷酷さに胸を突かれた。理性が、リリアの哀しみの前で崩れ去る。


「わ、悪い。リリア」カイルは慌てて近づき、震える手で彼女の肩に触れた。「……悪かった。その、冗談だ。そうだよ、きっとどこかで生きてる。シロは、賢いから」


 リリアはカイルの不器用な優しさに安堵し、わずかに顔を上げた。しかし、その安堵はすぐに、ルナの安否という大きな不安に塗り替えられる。


「ねえ、カイル。それよりも……」


 リリアは声を潜めた。


「ルナ様のこと。あの時、ルナ様は私たちを……街の人たちを守るために、剣を置いたんだわ。あんなに強かったのに、あんなに屈辱的なことを……」


 彼女の言葉には、ルナへの深い感謝と、その犠牲を前に何もしないでいることへの罪悪感が滲んでいた。


「魔族はルナ様を地下牢に連れて行ったでしょう? 誰も、ルナ様がどうなってるのか知らないわ。もしかしたら、もう酷い拷問を受けているかもしれない……」


 リリアの瞳に、再び涙が滲みそうになる。


「ねえ、私たち、今から助けに行こうよ」


 リリアは衝動的に、カイルの手を握って立ち上がろうとした。彼女の純粋な思いは、ルナの犠牲を知った今、じっとしていられないという焦燥感に変わっていた。


 だが、リリアの提案を聞いた瞬間、カイルの全身が硬直した。


 彼の脳裏に、魔族の黒鉄の甲冑と、腹部にめり込んだ冷たいブーツの衝撃が、鮮明に蘇る。痛みはもう和らいでいるはずなのに、カイルは思わず、腹部を庇うように後ずさりした。


「え――!」


 カイルの口から漏れた声は、驚きと恐怖、そして、自分の弱さが露呈したことへの羞恥が混じった、情けない響きだった。


 彼の顔色は血の気を失い、瞳は大きく見開かれ、リリアの強い意志を宿した視線から、咄嗟に逸らされた。


(地下牢だぞ。魔族の、本拠地だ。無理だ。無理に決まってる)


 カイルの心の中は、ルナを侮辱した魔族への燃えるような怒りと、魔族の冷酷な暴力への根深い恐怖によって、激しく引き裂かれていた。そして、現時点では、恐怖の方がわずかに、しかし確実に勝っていた。


 カイルの顔は恐怖に歪み、「ま、待てよ、リリア!」と震える声で叫んだ。


 そのカイルの反応を見て、リリアは察した。カイルは魔物に蹴られた痛みだけでなく、あの時、自分の炎の魔法が通用しなかった恐怖に、心を深く折られているのだと。


 リリアは、カイルの内面的な弱さを知り尽くしていた。幼馴染として、彼が**「勇敢な男」**という虚勢を張ることで、自分の無力感を隠そうとしていることを。


 リリアは、露骨にすねた表情を作った。


「なによ。カイルのいくじなし」


 その言葉は、カイルの心の傷にチクチクと刺さる。彼は一瞬、顔を赤くした。


「い、いくじなしなんかじゃねえ!でも、地下牢だぞ!魔族の本拠地だ!冷静になれよ、リリア!」


「冷静になって、ルナ様を見捨てるの?」リリアは、さらに畳みかけた。「カイルは、シロの時だって、あんなに勇敢に立ち向かったのに……。カイルは、勇敢な男じゃなかったの?」


 リリアの瞳は、まるで、カイルの心の中の**「理想の自分」**を見透かしているようだった。カイルは言葉に詰まり、唇を強く噛みしめる。魔族への怒りは喉元まで来ているが、恐怖がそれを押し留めている。


 リリアは、カイルの動揺を読み取ると、これが最後の手段だと覚悟を決めた。


 彼女は、すねた表情を消し、代わりに、無邪気だが真剣な、魅力的な微笑みを浮かべた。


 リリアはカイルに一歩近づくと、声を潜め、まるで秘密の儀式を提案するかのように囁いた。


「わかった。じゃあ、賭けをしない?」


 カイルは、リリアの急な変化と、その親密な距離に、息を飲む。


「……か、賭け?」


「うん」リリアは瞳を潤ませながら、真剣な顔で言った。


「一緒に地下牢まで来てくれたら……誰もいないところで、キスしてあげてもいいよ。約束する」


 カイルの思考は、恐怖から一気に「混乱」へと切り替わった。



(キス……? キスって、なんだ?)



 カイルはまだ子供だ。大人が交わすような愛や官能の意味は、よく分からない。しかし、目の前にいるリリアは、サンライズ・エンドの町で一番可愛らしい女の子だ。彼女が、秘密の場所で、特別な報酬として、自分に何かを与えてくれる――。その提案は、理屈も恐怖も吹き飛ばすほどの、強烈な魅力を放っていた。


「か、カイル……」


 リリアは、カイルが完全に動揺しているのを見て、不安そうに再び名を呼んだ。


 カイルは、魔族の黒いブーツの冷たさと、リリアの純粋な眼差しを天秤にかけた。


――くそっ。腹は痛い。足は震える。魔物は恐ろしい。


 だが、リリアの頼みを断り、いくじなしのままここに留まることは、ルナの犠牲を知った今、彼自身の魂の尊厳が許さなかった。それに、あのリリアの笑顔のためなら——。


 カイルは、震える身体に鞭打ち、無理やり声を絞り出し、恐怖を隠すかのように大げさな決意を表明した。


「よ、よし。じゃあ、行くか」


 声はかすかに震えていたが、彼は一度掴んだリリアの手を離さなかった。


 その言葉を聞いた瞬間、リリアの顔に、太陽のような、満面の笑顔が咲いた。それは、第一話でシロを奪われて以来、カイルが見た中で最も輝かしい笑顔だった。


「ありがとう。カイル!」


 リリアはそう言って、弾むようにカイルの腕に抱きつき、その細い腕をしっかりと彼の腕にしがみつかせた。


 突然の密着に、カイルの全身が再び硬直する。彼の鼻腔を、リリアの髪の甘い、柔らかい香りがくすぐった。


(なんだ、これ……)


 魔物への恐怖は、リリアの体温と香りに押し流され、カイルの心臓は**「痛み」とは違う、激しい「熱」**を帯びて、ドクドクと鳴り響いた。


 カイルは、まだ恐怖を完全に振り払えていないが、この愛着と少年特有の興奮が、彼の足を地下牢へ向かわせる、最も現実的な力となった。


「さあ、カイル。急ごう!」


 リリアは、ルナへの希望を胸に、躊躇なく暗い通路へと踏み出していった。カイルは、リリアの体温を感じながら、顔を赤くして、震える足で彼女の後を追うのだった。

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