第二話 白マント、泥に塗れる

 路地の影に、園児ほどの小さな少女ナナが、震えながら立っていた。彼女の顔は土気色で、青い瞳には涙の膜が張っている。


 手にしていたはずの小さな革袋は、魔物の一匹――鈍重なトロールのような姿をした魔族の足元に転がっていた。中身は、診療所でようやく手に入れた、病弱な母親のための薬だ。


「返して、ください! お願いだから……それがないと、お母さんが死んじゃうの!」


 ナナの切実な声は、魔物たちにとって心地よい音楽のようだった。薬袋を足で転がしながら、魔物たちは獰猛な笑みを浮かべる。


「だったら死ねばいいだろう。弱者には生きる価値がない。それが大魔王様の冷徹な秩序だ」


 魔物の一匹がそう言い放ち、薬袋の上で重いブーツをゆっくりと動かした。ガリッ、と、革袋の中の薬草が砕ける鈍い音が響き渡る。


 その理不尽な光景を見ていた少女リリアは、思わず前に飛び出した。第一話で「諦めること」を学んだはずの彼女の心は、友であるナナの悲劇に突き動かされた。


「やめて! こんなのってあんまりよ、ナナが何をしたっていうの!?」


 リリアの悲痛な叫びに、魔物たちは興味深そうに顔を向ける。


「なんだ? 人間の小娘。俺たちに逆らうのか?」


 その嘲笑に、周囲で見ていた大人たちの間に怒りの波紋が広がる。農家の青年は、手に持ったクワの柄を握りしめ、血管が浮き出るほど力を込めた。彼は今にも飛び出しそうだったが、周囲の年長者たちが必死にその腕を掴んで制止する。


「やめておきなさい! 余計な犠牲を出すな!」


「しかし! これはあんまりにも酷すぎる!」


 青年は涙を流しながら叫ぶ。「俺はもう我慢ができないんだ!」


 その声も届かず、魔物たちは青年たちの無力さをさらに嘲笑した。そして、リリアに向かってゆっくりと歩み寄る。


「人間の分際で、俺たちに意見する気か? 偉大なる支配者に逆らう者は、死罪だ!」


 魔物の分厚い爪が、リリアの華奢な首筋目掛けて、ゆっくりと振り下ろされる。リリアは、恐怖で身体が硬直しながらも、ナナの悲しみを思って瞳だけは逸らさなかった。


「リリアちゃん!」


 大人たちの絶望の叫びが、路地に響き渡った、その瞬間。



キン!



 耳をつんざくような、金属が激しく衝突する鋭い音と、強烈な閃光が走った。


 魔物の爪は、リリアの皮膚に触れる直前で、何かに弾き飛ばされ、その先端が根元から砕け散った。


 反射的に飛び退いた魔物たちの視線の先に、一人の女性が立っていた。


 彼女は、金色のロングヘアを風に優雅になびかせ、引き締まった腹筋、太ももがあらわになった、引き締まった身体を軽装の鎧で覆っている。何よりも目を引くのは、彼女の背中で大きく翻る白マントだ。マントの中央では、金色に輝く英雄の紋章が、絶望の空の下、唯一の光のように瞬いていた。


 魔物たちは一瞬で戸惑い、恐怖の声をあげる。



「な、なんだ貴様は!」



 女剣士は感情を表に出さず、ただ冷徹に、絶対的な強者の論理をもって言葉を放った。



「そこまでだ。魔物ども」



 次の瞬間、彼女は動いた。その動きは神速だった。


 白マントの裾が宙で弾む。鍛え抜かれた腹筋と太ももの筋肉が躍動し、彼女の身体はまるで光の矢の軌跡を描いた。



キン、キン、キン――



 短く、しかし連続して響く剣戟の音と共に、最初に声を上げた魔物の首が、何の抵抗もなく縦一文字に斬り裂かれる。鮮やかな傷跡から血が噴き出す暇もなく、魔物の巨躯は鉛のように地面に崩れ落ちた。



「生きていたのか……ルナ!」



 群衆の中から、かつての英雄の弟子を知る者が、歓喜と驚愕に満ちた声を上げた。


 ルナは一切の無駄なく、残りの魔物を仕留める。彼女の剣は、優雅でありながらも、圧倒的な破壊力を持っていた。魔物たちは次々と白マントの光に飲み込まれていき、数秒後には、ルナの足元に泥と血にまみれた魔物の残骸だけが残された。



 街の人々の顔に、久しぶりの希望の笑顔が宿る。



 ルナは魔物の残骸の中から、踏み潰されかかった薬袋を拾い上げた。


 彼女は幼い少女ナナの前に跪き、汚れた薬袋をそっとその小さな手の中に返す。ナナは信じられないといった様子で、ただ涙を流した。


 その背後では、クワを握りしめたまま呆然と立ち尽くす農家の青年がいた。ルナは立ち上がり、彼に向き直る。


「気持ちはわかるが、奴らに対抗するのは」


 彼女は、金色に輝く紋章を背に、冷徹な言葉を続けた。


「もっと力を付けてからにしなさい」


 青年は、自らの無力な怒りを恥じ、素直に頷くことしかできなかった。ルナの剣は、彼らの心に「力さえあれば、希望は守れる」という、新たな、しかし脆い幻想を植え付けたのだった。



 路地には、魔物の残骸から立ち上る硫黄と血の臭いが充満していた。しかし、そのおぞましい空気を塗り替えるように、そこに立つ女剣士の存在感が圧倒的だった。


 ルナは、農家の青年への言葉を終えると、再び幼いナナとリリアの方へ目を向けた。その動作一つで、長く張りつめていた緊張の糸が、やっと緩んだのを誰もが感じた。


 リリアは恐怖が去った後も、ただ呆然とルナを見上げていた。


 彼女の身長はリリアたちよりも遥かに高く、すらりとしていながらも、身につけた軽装の鎧から覗く身体は、激しい訓練の末に引き締められていることが見て取れた。だが、何よりも人々の目を奪ったのは、その背中で堂々と翻る純白のマントだ。


 長く汚れた灰色の世界の中で、そのマントだけは一点の曇りもなく、眩いばかりの白さを保っていた。


 そして、そのマントの肩口。金糸で刺繍された、天空を翔る剣と翼を象った紋章。


「…アルトリウス様の、紋章だ」


 青年の横で身を潜めていた老人が、震える声で呟いた。それは、かつて世界を魔王の恐怖から救った伝説の英雄アルトリウスが身につけていた、**『光の剣士の系譜』**の証。


 ルナは、その英雄の唯一の弟子であり、その力と誇りを継ぐ者であることを、その姿全てで示していた。彼女の剣が魔物を屠る様を見て、人々は確信した。



――まだ、希望は死んでいなかった。



 彼女の出現は、人々が心の奥底に押し込めていた「正義は勝つ」という信仰を、現実に引き戻す強烈な光景だった。


 ルナは静かに剣を納め、リリアに目線を合わせるため、もう一度膝を折った。彼女の動きは、先ほどの神速の殺戮とは打って変わり、酷く優しげだった。



「もう大丈夫。この子(ナナ)の薬、無事でしょう?」



 ルナの問いかけに、リリアは涙ぐみながら、ナナを抱きしめた。



「はい。ありがとう、ルナさん……!」



 ナナの母親も、青年の怒りも、そしてリリアの命も。ルナの圧倒的な「力」によって、この場の問題は全て解決した。


 しかし、ルナの冷徹な瞳の奥底には、この一時の平和が、世界の根本的な問題の解決にはなっていないことを理解している、深い憂いが漂っていた。



 ルナがリリアへの言葉を終え、剣を鞘に納めようとした、その時だった。


 路地の奥、太陽の光が届かない闇の深淵から、重く、地面を這うような足音が響いた。


 その姿は、先ほどのトロールのような下級魔物とは一線を画していた。人間よりも二回りは大きな体躯。全身は黒曜石のような硬質な装甲に覆われ、その頭部からは、知性を感じさせる鋭利な角が空を突いていた。



「ほう。随分と派手にやってくれたな」



 低く、響きの良い声が、まるで空間そのものを震わせる。


 彼の名は、グラキス。この地域の魔族を統率する、幹部の一人である。


 ルナは即座に臨戦態勢に入り、白マントを翻して剣を抜き放つ。人々の顔から、再び希望が消え、絶望の影が差した。



「貴様……!」



 ルナの神速の剣が、唸りを上げてグラキスに迫る。それは、先ほどザコ魔物を一瞬で屠った、光のような一撃。


 だが、グラキスは動じなかった。


 ルナの剣が装甲にぶつかる直前、グラキスは片手で、まるで飛んできた羽虫を払うようにルナの剣を横から弾き飛ばした。



「ふ。少しはやるようだな。女剣士」



 ルナの剣は、勢いを殺せずに弾かれ、彼女の身体が大きく体勢を崩す。グラキスはその隙を見逃さなかった。


 彼のもう一方の手が、まるで鞭のように鋭く伸び、ルナの腹部に叩き込まれた。


 ドッ! という、生々しい鈍い音。ルナは息を詰まらせ、数メートル後ろの壁に激しく叩きつけられた。一瞬にして、ルナの口元から血が滲む。


 しかし、彼女は倒れない。英雄の弟子としての誇りが、彼女の肉体と精神を支えていた。


 ルナは痛みに顔を歪ませることなく、立ち上がった。その剣捌きは、痛みでさらに鋭さを増していた。



「流石は奴の弟子だけはある」



 グラキスは嘲笑する。


「だが、その程度の力では、我には叶わない」


「なんだと……」


 ルナは呻くように言い返したが、内心では、先ほどの一撃で肋骨に深いヒビが入ったことを悟っていた。臓腑を揺さぶられた激痛が身体を駆け巡る。このまま戦闘を続ければ、確実に敗北する。


 しかし、彼女の背後には、恐怖で震えながら、自分を希望の象徴として見つめている、リリアやナナ、そして街の人々がいる。


 ここで弱みを見せれば、彼らの希望は永遠に潰える。


 ルナは血を呑み込み、無理やり笑みを浮かべた。


「虚勢を張るな、魔物。まだ終わりではない」


 ルナは、民衆の光としての威厳を保ちながら、グラキスとの対峙を続けた。だが、グラキスはそのルナの偽りの強さの裏にある、人の弱さと英雄の系譜が持つ矛盾を、冷徹に見抜いていた。


 グラキスは、戦うのをやめ、不気味な笑みを浮かべた。


「貴様のその**『虚勢』**こそが、いずれ貴様自身と、この街の破滅を呼ぶだろう。楽しみにしているぞ、英雄の弟子よ」


 グラキスはそう言い残し、ルナにトドメを刺すことなく、闇の中へと消えていった。彼の目的は、ルナをここで殺すことではなく、**追い詰め、打ち砕くための「準備」**をすることだったのだ。


 ルナは魔物の気配が完全に消えるまで、その場に立ち尽くした。


 そして、グラキスが去ったことを確認すると、彼女はよろめきながら、民衆に見えない路地の裏へと姿を消した。壁に寄りかかった彼女の口から、抑えきれなかった咳と共に、鮮血が飛び散った。



 ルナが路地の裏で血を吐き、壁に寄りかかって息を整えている、その時だった。


「ルナ。貴女は、今すぐ剣を置くべきだ」


 静かな声と共に、一人の老人が現れた。街の教会の神父だ。神父は、魔族に抵抗する意志を失った街で、唯一、人々の心の支えとなっている人物だった。


 ルナは、咳で荒れた喉を無理やり押さえつけ、立ち上がろうとした。


「神父様……何も、見ていません」


「無駄な虚勢だ」神父は穏やかながらも、有無を言わさぬ口調で言った。「私は英雄アルトリウス様を若い頃から知っている。そして、彼の弟子である貴女の、無謀なまでの優しさもな」


 神父の鋭い視線は、ルナの左脇腹を正確に捉えていた。ルナが白マントで隠し、必死に抑えているグラキスの一撃の傷。


「あの魔物は、貴女が今までに相手にしてきた雑兵ではない。その傷は、普通の人間なら立てないほどの深手だ。今日の貴女は、奇跡を起こしたのではない。ただ、運が良かっただけだ」


 ルナは何も言い返せない。体内の激痛が、神父の言葉が真実であることを物語っていた。グラキスは、ルナの「強さ」を測り、彼女の「弱さ」を知るためだけに現れ、そして去った。


「私がここで倒れれば、街の人々の希望が潰えます」ルナは辛うじて絞り出す。


「希望は、貴女の命と引き換えにするほど安くはない。生きていれば、必ず次の機会がある」


 ルナは神父から視線を逸らした。彼女の瞳には、**「しかし、私の力でしか、今この瞬間の悲劇は止められない」**という、英雄の弟子としての業が宿っていた。


「……私の使命です」


 ルナはそう答え、神父の制止を振り切るように、夜の闇の中へ姿を消した。神父は、ルナの去った方角を見つめながら、深く、悲しいため息をついた。


「無謀な光よ……」



――


――――


――――――



 場面は変わり、夜の街。


 「ル・シーニョ」という看板が掲げられた酒場は、魔族の支配下にあって最も荒れ果てた場所の一つだった。本来なら賑わうはずの時間だが、店内は異様な静寂に包まれている。


 酒場の大きな木製ドアは豪快に壊され、修理されることなく放置されていた。


 店内の中心では、五、六体の魔族がテーブルを囲み、高笑いしている。彼らの服装は、昼間にルナが打ち破ったザコ魔物と同じ系統だ。彼らはグラキスほどではないが、リリアの街の人間にとっては、圧倒的な暴力の象徴である。


「酒だ!もっと酒を持ってこい! 人間の醸造した酒は、血の味と違って甘ったるくて最高だぜ!」


 魔物の一体が空になったジョッキを床に叩きつけ、ガシャリと音を立てる。


 店主は、恐怖で顔を引きつらせながら、恐る恐る前に進み出た。


「もう、それぐらいにしてください。もう、皆が飲む酒が無くなってしまいます……」


 店主は、どうせ魔物たちが金を払わないことを知っていた。彼らが求めるのは、酒そのものではなく、人間から何もかもを奪い、尊厳を踏みにじるという行為なのだ。


 案の定、魔物たちは目を吊り上げた。


「なんだと! 人間の分際で、魔族に意見するのか?」


「い、いえ。そんなことでは……」


 店主は震えながら首を振る。彼らの理不尽な暴力に逆らえば、すぐにでも命を奪われることを知っていた。店主は、魔族の機嫌を損ねないよう、床のジョッキを拾おうと身を屈めた。


 その時、壊れたドアの奥の暗闇から、一筋の光が差し込んだ。


 ルナが、夜の酒場へと足を踏み入れたのだ。


 彼女の顔は蒼白で、白マントの裏には隠しきれない汗が滲んでいる。グラキスに負わされた深手が、全身に鉛のような重みを与えていた。


 しかし、その瞳だけは、昼間の英雄の光を宿したままだ。


「そこをどけ、魔物ども」


 ルナの冷徹な声が、酒場の空気を凍らせた。店主と客たちは、ルナの登場に一瞬希望を抱きつつも、そのあまりにも無謀な登場に、再び絶望の表情を浮かべるのだった。



 ルナの登場に、店内にいた魔物たちはすぐに気づいた。彼らはルナの白マントの紋章を知っている。昼間の敗北の報せは、すでにこの街の魔族の間で広まっていたからだ。


「おいおい、来たぞ! 昼間の白マントの女剣士だ。グラキス様の前に立ちはだかった無謀なやつ!」


 魔物たちはジョッキを叩きつけ、荒々しい歓声を上げた。彼らにとって、ルナは恰好の獲物であり、鬱憤を晴らすサンドバッグになるはずだった。


「酒場のドアは壊れている。そこから出て行け」ルナは冷たく言い放つ。


「なんだと!? 」


 魔物の一体がテーブルを蹴り倒し、巨大な斧を振りかざしてルナに飛びかかる。


 ルナは即座に反応した。剣が閃き、斧の軌道を正確に弾く。しかし、いつもの彼女なら、この一撃で魔物の腕を切り落としているはずだ。


(くっ……!)


 体内の激痛が、ルナの動きを鈍らせた。グラキスに受けた腹部の打撃が、全身に鉛のような重みを与えている。剣を握る腕に力が入りきらない。


「なんだ、その程度か!」


 魔物たちは一斉に襲いかかった。ルナは避け、受け流し、最小限の動きで対応するが、一撃一撃が重い。ルナは大きく後退した際、よろめいて背中の壁にぶつかった。


「ちぃっ……!」


 魔物の一体の攻撃を剣で受け止めた瞬間、傷口が開き、ルナの口から抑えきれない血が滲み出た。彼女の膝が、ついに地面についた。


ガチャン。


 剣先が床の砕けた木材に触れ、情けない音を立てる。


「なんだ? 英雄の弟子がこんな程度かよ!」


 魔物たちは、勝利を確信し、腹を抱えて笑った。恐怖に固まっていた人間たちの顔が、再び絶望に塗りつぶされる。


(くそ……さっきのグラキスにやられた傷がうずく。普段の力が出せない。この傷さえなければ……!)


 ルナは、歯を食いしばりながら立ち上がろうとするが、激痛がそれを許さない。その弱り切った姿を見て、魔物の一体が興奮したように汚い言葉を吐き出した。


「おい、まさか貴様、死んだ英雄アルトリウスの真似事か? 貴様の師匠も、最期はみっともなく泣き喚いて死んだらしいな! 白マントが、ただの血塗れの布切れになった瞬間は、大魔王様も大喜びだったそうだ!」


 ルナの血の気が引いた。肉体の痛みよりも鋭い、精神的な激痛が彼女を襲った。


「その口を閉じろ……!」


 尊敬する師への、これ以上ない侮辱。ルナにとって師アルトリウスは、光であり、正義の全てだった。その死にざまを、無力な自分の目の前で汚され、笑われる。


 ルナは、身体の痛みを忘れて立ち上がった。怒りの炎が、彼女の瞳を燃え上がらせる。


 しかし、そのルナの激昂こそが、魔物たちの望む反応だった。魔物はさらに笑い、ルナが動揺している間に、ルナの背後に回り込もうとした。


「俺たちがその師匠の無様な死にざまを、貴様にも教えてやるぜ!」


 ルナの命の危機が、再び、この酒場に訪れた。


 魔物たちはルナの激昂を喜び、汚い言葉で畳みかけた。


「止められるものなら止めてみろ! そのマント、英雄の紋章ごと、便所の布にしてやる!」


「ああ、いいぞ! 泣き喚く姿を見せてみろ。貴様の師匠も、最期は涙で顔がぐちゃぐちゃだったらしい。英雄の涙なんて、ただの塩水だ!」


 ルナの呼吸が乱れた。身体の傷による痛みは、すでに感覚の彼方に追いやられていた。今、彼女を打ちのめしているのは、魔物たちが意図的に狙った、精神の中核だった。


 ルナの命は、師アルトリウスの教えと名誉に全てを捧げることで成り立っていた。「力があれば、正義は守れる」という、脆い信念。


「やめろ……黙れ!」


 ルナは剣を構えようとするが、腕が震えて力が入らない。膝をつき、身体の痛みを堪えている彼女の姿は、もはや誰もが憧れた英雄の弟子ではない。ただの、深手を負った無力な女性だった。


 魔物の一体が、ルナの顔のすぐ近くに、汚い唾を吐きかけた。


「無駄だ。貴様には、俺たちを倒す力がない。その汚い涙で、貴様が守ろうとした**『英雄の正義』も、もはやただの笑い話**だ!」


 その言葉が、ルナの精神を決定的に打ち砕いた。


 ルナは、歯を食いしばり、必死に涙腺を抑えようとした。目の前にいる人間たちの希望を、これ以上潰すわけにはいかない。英雄の弟子は、泣いてはならない。


 だが、師への侮辱、自分の力の限界、そして何よりも、**「力による正義は、悪しき摂理の前で無力だった」**という残酷な現実が、彼女の意思の強さを超えて溢れ出した。


 一筋の熱い雫が、彼女の固く閉ざされた瞳の隙間から滑り落ちた。そして、もう一筋。次々に溢れ出した涙は、鍛え抜かれた彼女の頬を伝い、床の埃に吸い込まれていった。


 泣いていた。


 白マントを背負い、力で弱者を救おうとした英雄の弟子が、屈辱と無力感で、人前で涙を流した。


 それを見た魔物たちは、歓喜の雄叫びを上げた。


「ハハハハハ!見ろ、人間ども! 貴様たちの光が泣いているぞ! 英雄の弟子とて、力なき女の情けない姿だ!」


 魔物の嘲笑が酒場に木霊する。店内のお客たちは、ルナの涙を見て、ついに残されていた最後の希望が、冷徹な現実によって踏みにじられたことを悟った。絶望が、彼らの心を支配する。


 ルナは、震える身体で、膝をついたまま、顔を上げた。涙で視界は歪んでいるが、瞳に宿る怒りの炎だけは消えていなかった。


 彼女の、魂の底からの叫びが、魔物たちの嘲笑を打ち破る。


「……笑うな!」


 それは、**「私は力では敗北したが、私の魂と、この悲しみだけは、お前たちに支配させない」**という、英雄の弟子としての最後の、そして最も切実な抵抗だった。



 魔物の一体は、ルナの膝蹴りによる苦悶を嘲笑い、その頭を鷲掴みにした。


「命と引き換えだ。剣を置け! 逆らった罪で、貴様は死刑だ!」


 民衆は、ルナが深手を負っていることなど知る由もない。彼らが縋るのは、白マントの英雄の力だけだった。


「だめです! ルナ様、我々のことはいいですから、戦ってください! 貴女の剣なら、まだ……!」


 酒場の客たちは、涙ながらに戦うことを懇願する。彼らの命、そして未来の希望、そのすべてがルナの剣に懸かっている。


 ルナは、膝をついたまま、震える手で剣を握りしめた。彼女の脳裏には、師アルトリウスの教えと、**「力で理不尽を打ち破る」**という信念がこだまする。


 しかし、彼女の視線は、恐怖に顔を歪ませる店主や、幼いナナとリリアに注がれていた。自分の信念を貫き、ここで剣を振るえば、彼らは皆、魔族の報復で殺される。今の自分には、全員を守る力はない。


 ルナは、自らの魂が砕ける音を聞いた。


 彼女は、静かに、そして重々しく、握りしめた剣を床に下ろした。



カラン……



 剣が床の割れた木材に触れ、乾いた音を立てた。それは、英雄の正義が、この世界で完全に終焉を迎えた音だった。


「フフフ……ハハハハハ!」


 魔物たちの歓喜の嘲笑が、ルナの降伏を祝った。


 ルナが剣を置いたその瞬間、別の魔物が、約束を破って強烈な膝蹴りを彼女の腹部へ叩き込んだ。



ドガッ!



 昼間のグラキスの一撃で負った傷口が、激しい衝撃で完全に開き、ルナの口から大量の鮮血が噴き出す。苦しみに耐えかね、彼女は両膝を力なく床に突いた。彼女の背中で、純白の白マントが、血と酒と埃の混ざった汚れた床に、だらしなく広がった。


 魔物は勝利に酔いしれ、ルナの金髪を乱暴に掴み、頭を汚い床に押し付けた。



ドガッ!



「ルナ様!」


 店内のお客たちの悲鳴と、涙の叫びが木霊する。彼らは、希望の象徴が、何の抵抗もできず、獣のように扱われる姿を見て、完全に打ち砕かれた。


 魔物は、周囲の人間を睥睨し、勝ち誇ったように宣告する。


「連れていけ! お前は、暗い地下牢に幽閉し、弱らせてから、民衆の前で公開処刑に処す!」


 ルナの身体は、魔物たちによって乱暴に引きずられ、壊れた酒場のドアから、夜の闇の中へと消えていった。


 残されたのは、血と酒と絶望の臭いに満ちた酒場と、顔面蒼白のまま、何もできなかった自分たちの無力を噛みしめる人間たちだけだった。

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