第一話 優しきものの断絶

 私が最後に、教会の祭壇の前で心から笑ったのはいつだっただろうか。


 数ヶ月前のあの朝、光の剣士アルトリウスが敗れたという報が届いてから、世界は私たちに背を向けた。かつて希望に満ちていたこのエオス王国は、今や冷たい鉄と理不尽な規則に縛られた、巨大な檻と化した。


 私はこの小さな町サンライズ・エンドの神父として、人々の魂を慰める義務がある。だが、慰めの言葉は、飢えた腹を満たせない。そして、理不尽な暴力から、愛する者を守れない。


 魔王軍がこの町に持ち込んだ「新たな秩序」は、平和な日常の全てを、一つずつ、丁寧に破壊していく。集会は禁止され、人々は互いを監視するよう強いられた。剣や魔法の訓練は厳罰に処され、誰もが頭を垂れて生きることを強いられた。


 中でも、私の心に深く突き刺さったのは、あの忌まわしい**「ペット禁止令」**だった。


 「人間は、不必要な愛情を注ぐ対象を持つことを禁ずる。全ペットは速やかに魔王軍に差し出せ。拒否する者は、魔王様の食卓に供されるか、自らその手で処分せよ」


 この命令は、人間の魂から優しさという名の小さな灯火を奪う、冷徹な一撃だった。


 昨日、私は見た。教会の裏手、荒れた路地で繰り広げられた、あの悲劇を。


 幼馴染の少年カイルが、少女リリアが可愛がっていた子猫を乱暴に掴んだ魔族の手下に、果敢にも、無謀にも、立ち向かっていった。彼の震える小さな手から放たれた炎の魔法は、黒鉄の甲冑に覆われた魔族にはまるで通用しない。


 「ちくしょう!その手を放せ!」と叫ぶカイルは、すぐに魔族の足蹴りを受け、壁に叩きつけられた。


 傍では、人生を諦めた大人たちが何人も隠れて見ていた。彼らは、カイルの無謀な怒りが自分たちに火の粉を浴びせるのを恐れ、沈黙を選んだ。その顔には、恐怖と懺悔の涙が静かに流れていたが、誰も動かない。彼らの**「ごめん、カイル。リリア…」**という心の声だけが、虚しく宙を漂っていた。


 子猫を抱いて泣き崩れるリリアは、血を吐くカイルを見て、愛と命のどちらかを選ばなければならないという地獄に突き落とされた。


 「もう、やめて!もう、もういいから……」


 その叫びは、魔族の完全な勝利を意味した。魔族の手下は、勝ち誇ったように子猫を乱暴に掴むと、そのまま悠然と立ち去っていった。リリアの、遠ざかる子猫の名前を呼ぶ悲痛な絶叫だけが、静寂を破った。


 ああ、神よ。


 私たちは何を間違えたのでしょうか。正義が敗れ、悪が秩序となった世界で、なぜ、この無垢な子どもたちに、これほどまでに残酷で不条理な試練を与え続けるのですか。彼らが失った子猫の命は、彼らの心に、消えることのない深い傷を刻んだ。



――おお、神よ。どうして我々にこんな試練を与えるのだ……。



***


 石畳の冷たさが染みる教会の裏手、廃棄された木の樽の陰。リリアは小さな宝物を抱きしめるように、静かに身を潜めていた。


 抱いているのは、琥珀色の瞳をした、まだ手のひらにすっぽり収まるほどの子猫。リリアの頬に、子猫の柔らかい毛が優しく触れる。


「シロ……」


 リリアがそっと名前を呼ぶと、子猫は**「にゃあ」**と、天国から降りてきたかのような、純粋で無邪気な声で鳴いた。その声を聞くと、胸の奥がきゅっと締め付けられるほど愛おしい。


 この数週間、リリアにとって、この静かな時間が世界の全てだった。魔族の冷たい規則が支配するこの世界で、シロと触れ合うひとときだけが、以前の、優しさに満ちていた頃のサンライズ・エンドを思い出させてくれた。


 だが、すぐにリリアの表情は曇る。その優しい顔に、悲しみが影を落とした。


 ——いつまでも、こうしていられない。


 先日、大人たちから聞かされた「ペット禁止令」は、恐ろしい雷鳴のように頭の中で響いている。母は泣きながら、「シロちゃんとはお別れしなさい」と言った。魔族に隠れて飼い続ければ、家族全員が罰せられる。それは、この街の誰もが知っている、冷徹な真実だった。


 シロを抱きしめる腕に、思わず力がこもる。


 その時、頭上から声が降ってきた。


 「リリア」


 心臓が飛び跳ねた。


 びくりと肩を震わせ、リリアは慌ててシロを抱きしめ直して顔を上げた。


 誰かに見つかった!


 真っ先に頭をよぎったのは、大人たちの顔だった。やはり隠し通すのは無理だったのか。厳しく叱られ、今すぐにシロを連れて行かれてしまう。恐怖で呼吸が止まりそうになる。


 しかし、視線の先で立っていたのは、見慣れた、少し怒ったような顔。


 幼馴染の少年、カイルだった。


 その姿を見た瞬間、張り詰めていたリリアの全身の力がすっと抜けた。


「……カイル……」


 リリアは深く息を吐き、誰にも聞かれないように小さな声で言った。


「もう……びっくりさせないでよ。お父さんたちかと思った……」


 ホッと安堵するリリアとは対照的に、カイルは不満げな顔を崩さないまま、リリアとシロを見つめていた。


「だけど、そいつ。このままでは俺たちは、」


 カイルは子猫、シロをじっと見つめながら、言葉を切った。彼の声はいつもより低く、そして重かった。


 リリアはシロを胸に抱きしめたまま、何も言えずに俯いた。シロを抱く手の力が弱まる。カイルが何を言いたいのか、痛いほど理解していた。魔族の定めた規則に逆らうと、どうなるか。それはこの町で、誰もが肌で感じている恐怖だった。


 だが、カイルは納得していなかった。その顔には、理不尽な世界への抑えきれない怒りがくっきりと浮かんでいる。


「……」


 リリアの悲しい横顔を見て、カイルは黙って拳を握りしめた。彼の心の中で、正義感と無力感が激しく衝突しているのが見て取れた。


 その緊迫した空気を、突然、別の声が破った。


「リリア!それは――!」


 教会の裏手へと続く路地から、近所の顔見知りのおじさんが飛び出してきた。彼の顔は恐怖に引きつり、額には脂汗がにじんでいる。子猫、シロの存在に気づいた瞬間、彼は悲鳴にも似た声を上げた。


 人間がペットを飼っていることが魔族に知られれば、自分たちまで罰せられる。その恐怖が、彼の理性と優しさを麻痺させていた。


「なんだ?なんだ?」


「お、おい!なんだそれは!」


 騒ぎを聞きつけ、次々と他の大人たちも集まってくる。皆、子猫を見ては驚き、すぐに**「恐怖」**に顔色を変えた。それは、自分たちの命が危険に晒されることへの、純粋な恐怖だった。


「リリア!早くそれを捨ててきなさい!すぐにだ!誰かに見られる前に!」


「でも!」


 リリアは涙をこらえながらも抵抗した。シロを手放すことなど、考えられない。この子だけが、彼女に残された温かい繋がりだった。


 その光景を傍で見ていたカイルは、ついに我慢の限界を迎えた。彼は路地の真ん中に立ち、周囲の大人たちを、まるで敵を睨むかのように見据えた。


「こんなの間違ってるよ!」


 カイルの叫びは、震えていながらも、怒りに満ちていた。


「なぜ、みんな戦わないんだよ!どうして、こんなのおかしいって言わないんだ!」


 カイルの純粋な叫びは、大人たちの間で、恐怖と苛立ちの混じったざわめきになった。


「ば、馬鹿なことを言うんじゃない!」


 最初に飛び出してきたおじさんが、顔を真っ赤にしてカイルを怒鳴りつけた。恐怖が彼を攻撃的にしていた。


「戦うだと?お前は何を言ってる!平和な時と違うんだぞ!目を開けろ、カイル!」


「違う!おかしいことはおかしいんだ!だって、昔の英雄だったら、こんな理不尽なこと、絶対に許さなかった!」


 カイルは息を切らしながら、胸に溜まった憤りを吐き出した。彼の瞳には、かつて王国の希望だった光の剣士アルトリウスの姿が焼き付いている。


「僕が持っている魔法だって、抵抗するための力だ!みんなで力を合わせれば、魔族だって――」


「黙れ!」


 今度は、奥から出てきた中年の女性が、悲痛な叫びを上げた。彼女の顔には、諦めと悲しみが深く刻まれている。


「その英雄が、どうなったか、知らないのかい!?」


 カイルは言葉に詰まった。


「光の剣士アルトリウスが、どうなったか!私たちはついこの前、広場で聞かされたばかりだろう!英雄は死んだ! 大魔王ザイラスに、一瞬で首を刎ねられたんだよ!」


 女性の声は震え、途中で嗚咽に変わった。その言葉は、カイルの胸に鋭い刃のように突き刺さる。


「…だけど、僕たちが諦めたら、もう…」


「諦めたんじゃない!生きるために受け入れたんだ!」別の大人が声を上げた。その理屈は、冷たく、そして論理的だった。


「いいか、カイル。お前の言う英雄でさえ、奴に叶わなかった。世界を支えていた『正義』の象徴が、一瞬で打ち砕かれたんだ。そんな相手に、私たちのような何の力もない者が、束になってかかったところで、叶うわけがないだろう!」


 大人たちの声は、「諦め」ではなく、「生存」という名の冷徹な理屈となって、カイルの純粋な怒りを包囲していく。


「お前は死にたいのか?リリアまで殺したいのか?私たち全員を、規則を破った罰として、魔族の餌にさせたいのか!」


 その言葉を聞いたリリアは、子猫を抱きしめたまま、小さく「ううっ」と喉を鳴らして泣き崩れた。


 「だけど!」カイルは壁を殴りつけたい衝動に駆られながらも、言葉が出てこない。彼は、大人たちの論理的な恐怖の前で、己の理想主義が、ただの無謀な感情論でしかないことを痛感させられていた。


 その時だった。


 路地の向こうから、不吉な金属音が響いてきた。


 のしのし、のしのし。


 魔族の甲冑が、石畳を踏みしめる音だ。騒ぎを聞きつけたのか、黒い影が路地に現れた。


「なーにを、騒いでいるのかな?人間ども」


 甲冑姿の魔族の手下が、冷徹な声でそう言った。


 その瞬間、大人たちの顔から血の気が失せた。彼らがカイルに押し付けていた「生存の理屈」が、現実の恐怖となって、そこに立っていた。


 「ひっ…」


 おじさんの一人が情けない声を上げると、大人たちは一斉に、我先にと路地の奥へと逃げ出した。彼らの**「理屈」は、「恐怖」**の前で脆く崩れ去り、カイルとリリアを置き去りにした。


 魔族の手下は、その光景を鼻で笑い、のっそりとカイルたちの傍へ歩み寄る。


「おーや?それは何かな?」


 魔族の視線は、地面にしゃがみ込み、涙で顔を濡らしながら子猫を抱くリリアに固定された。


「もしかして、ペットかな?」


 カイルは壁に激突する前の最後の力を振り絞り、子猫を守ろうと、リリアの前に立ちはだかった。


「ちくしょう!その手を放せ!」


 カイルは叫ぶと同時に、体内の魔力を一気に絞り出した。彼の小さな掌から、揺らめく小さな炎の塊が飛び出す。それは、彼が持てる最後の抵抗の力であり、彼自身の**「理想」の全て**だった。


 炎は、魔族の手下の黒鉄の甲冑に当たった。


 「カチッ」


 乾いた音が響き、炎はすぐに消えた。甲冑には薄っすらと煤が付いただけだ。


「なんだ?この炎の魔法は?」


 魔族の手下は、怒るどころか、面白そうに首を傾げた。その動作には、明らかな嘲笑が含まれていた。


「おや、おやおや。子犬の吠え声のような、か細い火だ。それで、何ができるというのかな?」


 カイルは、炎が消えた光景を見て、体だけでなく、心の奥深くに亀裂が入るのを感じた。これが、自分に与えられた全ての力。そして、この力さえも、この世界の理不尽の前では、ただの火遊びでしかない。彼の喉の奥から、絶望が混じった**「くそっ……」**という声が漏れた。


 魔族の手下は、カイルの無力な抵抗を完全に楽しんでいるようだった。彼はゆっくりとカイルに近づき、遊び道具を扱うように、左足でカイルの腹を強く蹴り上げた。


 「ぐ……!」


 カイルの体から空気が絞り出され、彼は両膝から地面に崩れ落ちた。魔法を使い果たした身体に、激しい痛みが走る。


 魔族の手下は、抵抗できないカイルを見てさらに面白がる。殺す気はない。ただ、人間の希望を打ち砕き、尊厳を奪うことを楽しんでいるのだ。


「もう!やめて!もう、もういいから……っ!」


 リリアの悲鳴が、路地に響き渡る。彼女の叫びは、子猫への愛を諦め、ただカイルの命だけを助けたいという、生存本能から生まれたものだった。


 しかし、カイルは痛みに喘ぎながらも、首を振り絞ってリリアに告げる。


「駄目だ!リリア……。そいつはお前が大事に育てていたシロだろう。諦めるなよ……!」


 カイルの言葉は、魔族の暴力に屈してもなお、彼の内なる**「理想」が生きていることを示していた。だが、その理想は、リリアにとって、カイルの命を危険に晒すだけの、恐ろしい「呪い」**でしかなかった。


魔族の手下は、最後にカイルを玩具のように足で強く一蹴し、壁に叩きつけさせた。


 ドォン!


 カイルは、もう動けなかった。壁にもたれかかるようにして、激しい痛みと無力感に襲われる。


 魔族の手下は、冷たい視線をカイルからリリアへと移した。


 「お別れの時間だ、小娘」


 彼はのしのしとリリアの傍に歩み寄ると、彼女の腕の中にいた子猫を、その大きな、冷たい手で乱暴に掴み上げた。子猫は恐怖に震え、か細い悲鳴を上げた。


 リリアの口から、言葉にならない嗚咽が漏れる。彼女はただ、連れ去られるシロを見つめることしかできなかった。


 そして魔族の手下は、子猫を片手でぶら下げたまま、何事もなかったかのように、悠然と路地の向こうへ去って行く。


 その背中が見えなくなった瞬間、リリアは倒れたカイルの傍で、力の限り、その名前を泣き叫んだ。


「シロォォォォオオッ!」


 その光景を、物陰に隠れていた大人たちが、静かに涙を流しながら見つめていた。


 彼らの涙は、恐怖で動けなかった自分たちへの懺悔だった。だが、同時に彼らの足は、その場で震えながらも、カイルたちに歩み寄る勇気を最後まで見いだせなかった。


「ごめん、カイル。リリア……」


 彼らはそう、心の中で懺悔しながら、自己保身という名の冷たい壁に阻まれ、音もなく路地の闇の中へと消えていった。

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