第3章 「倫理の審問(モラーリタス)」 4話

アークトゥルス助祭はテーブルの上の広げられた大きな地図のうち、アンフィニ周辺の地図を指さした。

紙の地図の端は湿気でわずかに波打ち、インクの匂いが微かに漂う。


「順を追って話します。まずユーリ・ラプラスの離教から約5年ほど経っていますが、彼は聖団の勢力圏の外側で活動しています」


アークトゥルス助祭は勢力圏を示す赤い線を指差す。


「彼は離教後速やかに南下し、まず聖団の勢力圏から出たと思われます。その後は断片的ですが、潜伏場所を西へ移動させています」


おそらくユーリがたどったとされる道は主要な街道から大きく外れていた。


特に離教後、勢力圏から脱出するためにたどった道は往来が少なく、主要な街とも距離がある。

これはとにかく勢力圏から脱出し、身元を掴ませないために最短距離を進んだのだろう。


私が同じ状態であれば同じことを選択するだろう。

やはりユーリはかなり合理的な人物だと思われる。


「ユーリがこの5年間で移動した潜伏場所はどんな場所ですか?何か意味があるのでしょうか?」


「これらの潜伏場所に共通するのは聖団、研究所の管轄が及ばない地域で、人は住んでいますがいわゆるスラム街のような生活の質が低い街を選んで潜伏しているように思われます」


私は顎に手を当てて考え込んだ。


私は研究所からアンフィニを目指すまでに一度この不定形の地帯を通り抜けている。

両方の組織の目が届きにくく、かつ術式を持つものであれば少なくとも人との争いで負けることはない。


しかし潜伏するには格好の場所に思えるが、どうしても避けられないリスクがある。


この地帯は『絶望が累積する』場所なのである。


今日を生きることすらできない人々が大勢いる。

貧困に喘ぎ、医療は受けられず、今日の飯を得るため殺し合う。


そんな場所では『絶望が累積する』。


つまりアビスの発生確率がはね上がる。

このリスクは術式を持っていても見過ごすことができないリスクだ。


「なぜユーリはスラム街を選んで潜伏するのでしょう?確かに目が届きにくい場所ですが、アビスと遭遇する確率が高まります」


「真意はわかりませんが、おそらくユーリ・ラプラスはアビス発生を予測していると思われます」


アビスの発生を予測することなどできるのか?

だとすればアビス研究の大きな一歩になり得るぞ?


「彼が潜伏中、もしくは移動した数日後にアビスが発生しています。毎回ではありませんが7割以上の確率でアビスが発生しています」


「危険を察知したタイミングで潜伏場所を移動させているということですか?」


「アビスの発生のタイミングから見るとそうだと言えます。ユーリ・ラプラスは戦闘を避け、目の届きにくいところを選んで潜伏していると思われます」


もしユーリがアビスの発生を予測できるとしたら実に合理的だ。


極力目の届きにくい場所を選びながら徐々に距離を取る。

しかも損害を出さないために徹底的に戦闘を避けている。


ユーリの目的はなんだ?


ただ逃亡するならもっと短期間で距離を取ることもできそうだが、何かしらの理由があるのだろうか?

それともそれ以外の目的があるのだろうか?


「現在ユーリ・ラプラスは大陸の西側、小さな港町から何隻かの小型船で『静寂の島(インスーラ・シーレンス)』に上陸したと思われます」


「一隻ではなく複数隻ですか?」


「はい。彼が潜伏場所を移動する度に数名の同行者が確認されています。また静寂の島上陸後、数日おきに別の小型船が港町から出ていることも確認されています」


「つまりユーリは今単独ではなく、複数人で活動している可能性がありますね」


「そうです。その集団の規模、活動内容を探るのが第一歩と言えるでしょう」


随分と厄介な話になってきた。

この集団に術式を使える人間がいたならば二人で立ち向かうのは無謀だ。


「もし集団が数十人、数百人規模だった場合どうしますか?」


「その場合は偵察として情報を持ち帰って欲しい」


アルモニコ司教が口を開いた。


「現場での判断に任せるが、戦闘に不利だと判断したならば一度アンフィニ戻り、その後聖団の正規部隊を編成しよう」


「この奪還作戦に正規部隊を投入すれば問題が公になりますがよろしいのですか?」


「背に腹は代えられまい」


「わかりました。では目標はゼノン・プロクルスの著書ですが、場合によっては偵察のみという形で作戦を実行します」


アルモニコ司教が頷いた。


「それではまず静寂の島に近い港町へ向かいましょう」


アークトゥルス助祭が地図の西側に書かれた町を指差した。


「この町が静寂の島に最も近く、最後にユーリ・ラプラスが目撃されたところです。この町まで行き、それから静寂の島に上陸するのが最善だと思われます」


「そうですね。そのプランで問題ないと思います」


「ではこの港町、『プエルトゥム』に向かう道のりですが、真っ直ぐ南西に向かうのではなく一度西へ向かい、その後南下する経路を提案します」


「なぜ真っ直ぐ南西に向かわないのですか?」


「アンフィニから西へ向かう街道は巡礼者が通る道になっています。この道には聖団の信仰が根付いており、アビスとの接触確率低下が期待できます」


信仰が根付くとはどういうことだろうか?


巡礼者が通る道ということは一般人でも通れる危険度が低い道だろう。

しかし道に術式が張り巡らされているわけでもないだろうし、いまいちイメージができない。


しかし安全であるならばそちらの方がよい。

私は疑問をぶつけたいのを堪えその経路を了承した。


「それではこれから二人にはまずプエルトゥムに向かってもらい、その後『静寂の島(インスーラ・シーレンス)』に潜入してもらう」


アルモニコ司教が地図から顔を上げ、二人を順番に見つめる。

その緊張感のある表情を見て私も体に力が入る。

アークトゥルス助祭も背筋を伸ばし真っ直ぐアルモニコ司教を見つめている。


「二人とも無理はしないように、必ず生きて帰ってくるのだ。わかったね?」


「「はい」」


二人の声が重なる。


「それでは直ちに出発の準備を」


静かな声が作戦の開始を告げる。


気が付けばあれほどうるさかった雨音は静かなものに変わっていた。


私は教会を飛び出し空を見上げる。

まだ雨は降っているが黒色の大きな雲はもう随分と遠くにあった。

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