第2章 「異端の探求(ヘレシー・クエスト)」 4話
遠くに喧騒を感じる。
それは私の泥を舞い上げ、水を濁らせる。
私はまた泥を落ち着かせるように心を切り離した。
次第に泥と水は分離する。
また澄んだ水だけが残る。
しかし喧騒は消えなかった。むしろそれは鮮明になり、私の意識を急速に引き上げた。
宿のベッドで目を覚ました私は汗をかいていた。
不快感が意識に張り付いたままの状態で私は喧騒を感じ取った。
外が慌ただしく悲鳴のような声も聞こえる。
私はこれが異常事態だと判断し昨夜脱いだ靴を履き、上着を掴み部屋を出る。
廊下に出た時他の部屋の扉は開け放たれたままで、それがより異常さを際立たせる。
上着を着ながら廊下を抜け、階段を下る。
昨夜代金を支払った受付やエントランスには誰もおらず私は危機感を感じながら宿屋を飛び出した。
街の路地には人が溢れていた。
皆一様に慌てた様子で街の中心部、すなわち教会を目指し走っている。
あるものは仕事着のまま駆け、あるものは子供を抱きながら、あるものは聖典の様なものを持ちながら走っていた。
おそらくこれはアビスが出現したのだ。
それも突発的に。
でなければこんな混沌とした状況にはならない。
私は逃げ惑う市民とは真逆の方向へ駆け出した。
心臓がいつも異常に苦しく、締め付けるように脈を打つ。
アビスの等級はいくつだろう?
【論理の保留(アポリア)】が必要になるだろうか?
また不安が押し寄せる。
それを押し返すようにアビスを探すために私は走った。
アンフィニの城壁沿いにある城門付近にそのアビスはいた。アビスは巨大な猪のような動物型の下級アビスだった。
これなら【論理の保留(アポリア)】を使わなくても大丈夫そうだ。
私は微かな安堵を感じながら防御術式を展開し拘束術式の構築に移る。
一帯にはもう人は見受けられないが万が一のことも考えできるだけ戦闘被害は抑えておきたい。
アビスは縦横無尽に体当たりを続けており、辺りの建物を次々と崩壊させていく。
拘束術式の構築がまだ終わりきらないところでアビスは崩壊した民家から顔を出しこちらに気が付いた様子だった。
私は一気に気を引き締める。
見ての通りアビスは物理的攻撃が主体なので、私の防御術式の前では私に触れることもできないだろう。
しかし被害をこれ以上出さないためにも拘束術式による捕縛は必須である。
私とアビスの視線が交差する。
アビスは私に向かって一直線に突進を繰り出し、私は全身に力が入るのを感じながら防御術式で受け止める。
想定どおりアビスは防御術式に損傷を与えることもできなかった。
これならば拘束してから物理的な火力の集中で十分対処可能だ。
拘束術式が構築されるまでの間、注意を引き付けながら防御に回るだけでいい。
やや時間はかかるが確実に仕留め、被害を最小化するためにはこれが最適解のはずだ。
私は戦闘方針が決まったところで持久戦の心構えをした。
しかしその瞬間眩い閃光と共にアビスには何本もの光の矢が打ち込まれていった。
光の矢はアビスに物理的損傷を与え、動きを鈍らせた。
想定外の事態に戸惑いを感じ、光の矢の発生源や状況の確認をしたいが、アビスはまだ動けると言わんばかりにもう一度私を目掛けて突進してきた。
もう一度体に力が入るのを感じたがアビスの突進の衝撃が伝わってくることはなかった。
一度目とは比にならない程の量の光の矢が降り注ぎアビスを完全に無力化してしまったのである。
アビスは徐々に崩壊し、跡形もなく消え去っていった。
この光の矢は物理的な破壊力を持っている。
そして莫大な出力と速攻性は、研究所の論理回路では再現が難しいだろう。
あれが信仰心の力だというならば、それは論理とは全く異なる原理でアビスに干渉している。
私は拘束術式の構築は破棄したが防御術式の展開は続けたまま光の矢を放った人物を探した。
光の矢が放たれた方向、城壁の上には一人の男性と思われる人影が見えた。
その人影が城門の側面の階段を下りながらこちらに向かってくる。
「アンフィニで論理回路による術式を見るのは珍しいですね。貴方は対絶望理論研究所の研究員ですか?」
私は初めての聖職者との接触に警戒心を持っていた。
返答を間違えばこの場で戦闘することになる。
私は無言という返答をした。
逆光と影の中から男性は姿を現した。
初老だが姿勢の良い長身、白髪交じりの優しそうで品のある男性だった。
体には金や青色で丁寧に装飾された純白のローブをまとっている。
「警戒する気持ちはわかりますが危害を加えるつもりはありません。貴方は街を守るための戦い方をしていましたよね?」
よく状況を観察している。
私が防衛的な戦術に比重を置いていたことを見破っている。
それにおそらく先程の発言から論理回路や防御術式の特性を知っている可能性がある。
私は思考がまとまりきらないまま、このままでは無意味に膠着状態が続くだけだと思い防御術式を解いた。
「私は対絶望理論研究所の論理回路や術式を扱いますが研究員ではありません。少し前に研究所を脱退しています」
私は警戒を続けながらも情報を開示した。
「そうですか。もう何年も前に一度だけ目の前で見たことあるのですが、やはり論理回路による防御術式は美しいものですね」
そう言って初老の男性は名乗った。
「私は『真理の聖団(アニマ・ヴェリタス)』の司教兼アンフィニを統括しているユリウス・アルモニコといいます」
司教でアンフィニを統括している?
その瞬間私の停滞していた時間が動き出した。
この人ならば書庫の重要書類へのアクセス権限もあるはずだ。
「私はカイン・アリストといいます。アンフィニにはゼノン・プロクルスの著書を探しに来ました」
それを聞いてアルモニコは目を見開いた。
そして私の目を真っ直ぐに見ながら意外なことを聞いてきた。
「アリスト。貴方はシグルド・クライヴという研究員をご存知ですか?」
それを聞いて私の中で点と点が繋がり線になった。
なぜ師匠がゼノン・プロクルスのことを知っていたのか、その情報源はどこなのか。
それはきっと目の前にある。
「シグルド・クライヴは私の恩師であり、ゼノン・プロクルスの情報を私に残した本人でもあります」
「そうか。君はシグルドの弟子なのか。どおりで綺麗な防御術式をしているわけだ」
アルモニコは納得したように微笑みながら頷いていた。
この人は師匠のことを知っている。
おそらくこの人を通じてゼノン・プロクルスの情報を集めていたのだ。
「シグルドとは旧知の仲でね、時折アビスや研究所、聖団についての考えを話し合ったのだよ。そして君はその意思を継いでアンフィニにたどり着いたというわけだ」
私は深い安堵を覚えた。
私がシグルド・クライヴの弟子であること、そしてその意思を継いでアンフィニに来た論理的帰結をこの人は理解している。
それは自身の論理がこの非合理の街で初めて受け入れられた感覚だった。
「はい。私はアビスの概念的討伐、絶望の克服を目指しています。それに関する情報がゼノン・プロクルスの著書にあると師匠は書き残していました。それらに関わる書籍を見せていただくことはできますか?昨日書庫に行った時には聖職位を持っていないと見れないと言われました」
柄にもなく私は矢継ぎ早に喋りたててしまった。
「ああ、君がシグルドの弟子ならばいいとも。しかし数日待って欲しいこのアビスの後処理をしなければならないからね」
「わかりました。私に何かお手伝いできることはございますか?」
「いやむしろこの町に気を使いながら戦ってくれてありがとう。ゆっくり休んでくれたまえ。1週間後教会の書庫に来て欲しい。そこでゼノン・プロクルスの著書を見せよう」
「わかりました。ありがとうございます」
アルモニコはもう一度ありがとうというと教会の方に向かい歩いていった。
私は長く息を吐いた。
全く取っ掛かりのない絶望的な状況で完璧ともいえる切っ掛けを作れた。
これで一番問題だった部分が解消された。
1週間待たなければならないのは歯痒いが仕方ないだろう。
とりあえずこの1週間は町の散策にでも充てよう。
先程アルモニコが使った光の矢は恐ろしい程の速攻性をアビスに示していた。
これが信仰心の力だというならば論理回路とは全く異なる形でアビスに対抗できる可能性がある。
私はこの信仰心というものを知らなければならない。
そのためにはまずこの町の文化や価値観、考え方を知らなければならない。
私の論理を拡張し、師匠が何故非合理的な要素を自身の論理回路に組み込もうとしたのかを知らなければならない。
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