序章 後編
私はアビスに出会うたびに思うことがある。
アビスは何を考えているのだろう?
アビスは何を感じているのだろう?
そこにある絶望は私の持つ絶望とどれだけ重みに差があるのだろう?
何も知らないのだ。
私達は誰かが持っている絶望を何も知らない。
知らないことにどうやって立ち向かえばいいのだろう?
それはたとえばもっと些細なことでもいい。
道端で泣いている子供はなぜ泣いているのだろう?
親とはぐれてしまったのだろうか?
それともどこか怪我をしてしまったのだろうか?
その理由を知らないと私達はただ傍観することしかできない。
だから問い掛けるのだ。
なぜ泣いているんだ?
涙を流すほど辛いことがあったのか?
そうやって問い掛けることにより初めて私達は知ることができる。
ならばアビスも同じであるはずだ。
アビスが何を根源として発生したのか。何の絶望がそのアビスの核なのかを知らなければならない。
だから私はその絶望を知るために異端ともいえる術を作った。
『対絶望理論研究所』の論理や合理でははかれない絶望という非合理を知るために。アビスの根源である内側の絶望に直接触れるために。
その術式は一切の情報を保留することによりダメージを無効化する。
しかし代償としてアビスを消滅させれなかった時にそれまでのダメージ全てがフィードバックされ、使用の度に絶望に触れる危険を冒し、その都度精神が汚染されていく非合理的な術式。
思考や感情を覗き込みそれらを知るために私の全てを投げ出す、私が論理的にたどり着いた非合理的な信念の、『対絶望理論研究所』の理念に真っ向から反する術式を。
故に人々は私を、『異端の論者』と呼ぶのだろう。
――その術式の名を、【論理の保留(アポリア)】という。
私を守っていた防御術式によるバリアが崩壊すると同時に私は異端の術式を展開した。
その瞬間アビスの不可視の攻撃が私の腹部と頭部を続けざまに襲ったのだろう。抉りとられるような違和感と共にアビスの攻撃を自覚した。
それと同時にアビスの根源である絶望が私の精神に流れ込み、その絶望は脳内に直接響き渡るように私に自分の価値を問いかけた。
お前の存在する理由はなんだ?
お前にはどれだけの価値があるのだ?
お前は何を持って自分を定義するのだ?
その問い掛けにより私はこのアビスがどんな絶望から生まれたかを理解した。
ああ、そうかやはりこのアビスは存在を認められなかった絶望のアビスだ。
このアビスから感じることは大きく二つあった。
ひとつはやはり他者から遠ざけられ、無視をされ、まるでそこにいないように扱われた虚無感。
そしてもうひとつは存在が否定されているというどうしようもない事実が自分の力では変えられない、外的な要因であるという論理的な帰結による思考の停滞感だ。
それは冷たく閉塞感のあるまるで窓のない地下牢獄に閉じ込められているような暗く重たい絶望だった。
でもこの息の詰まるような、太陽の光すらも届かないような絶望を私は知っている。
そして私はその絶望にもう答えを持っている。
『我思う、故に我あり』
私は私しか知り得ない。それ以外の存在理由も、存在価値も知らないのだ。
自分の定義など唯一証明できる存在が私自身なのだからむしろそれ以外が定義できない。
私が存在する理由は私を生きるためだ。私の価値は私がどれだけ自分自身の信念を貫き、自分自身を裏切らず、自分自身に立ち向かい続けるかだ。
そんな絶望はとうに乗り越えてきた。
自分自身の存在、理由、価値、定義を他人に任せるな。人は一人分しか生きれないのだから一つずつ自分自身で積み上げるのだ。自分自身を積み上げることを怠ればそれはいつか牙を向く。積み上げなかった故に詰みが来るのだ。
だからどんな状況でも外的な要因で自分を定義するべきではない。どんなに自分の存在が無視され続けようと自分自身で自分を定義するのだ。
だから私はこの絶望をよく知っている。
それはまだ先が見えることを知っている。
よく見える。
『透明な亡霊』の実体がよく見える。
それは人型のアビスで背格好はごく普通の人間くらいだった。
虚無を象徴するような漆黒の影がその腕を伸ばし私を切り裂こうと振り回している。
その不気味な姿に恐怖が首筋を這うような感覚があったがそれでも私は目を逸らしはしない。
さあお前はどうやってこの事実を受け止める?
自分自身で定義することをやめた、停滞した論理を持つお前は私の進み続ける論理にどう立ち向かう?
私は私の理論を物理的な形を持つように術式に写し出す。
【結論の楔(アポデーシス)】
術式を定義する論理回路から眩い白光が放たれ私の右手を包みこむ。
やがてそれらは手のひらへ集束し、白光の大きな楔が手のひらに現れる。
真っ直ぐアビスを目掛けて手を伸ばす。
楔を打ち込む場所に向けて手を伸ばす。
楔が撃ち抜くのは心臓の位置。
その絶望は私の持つ自分自身を定義する論理を乗り越えられるのか。お前の絶望と私の論理で真向勝負をしよう。
いまだ私の存在を消し去ろうと長い腕を振り回すアビスに正面から向き合う。
一度大きく息を吸い込み、私は手のひらからアビスに向けて白光の楔を穿つ。
楔は真っ直ぐに白い軌跡を残しながらアビスの心臓に突き刺さり、それと同時に今までの苛烈な攻撃がピタリと止む。
動きが止まり沈黙が訪れる。
微かに吹く風の音だけがその場を支配していた。
どれほどの時間が経ったかはわからない。
全てが停滞したような静寂はまるで内部理論が整合性に異常をきたしフリーズしてしまったアビスそのもののようだった。
しかしその止まった時間も少しずつ動き出す。
アビスは内部理論の崩壊を修正することができず、少しずつ漆黒の影のような体が消え始めていった。
そしてアビスは内部理論の完璧な崩壊とともに消滅していった。
アビスが完全に消滅したことを確認して私は短く息を吐く。
展開していた術式を解除して周囲の被害の確認をする。
突発的に現れたアビスだったため周囲には逃げ遅れたであろう人々の成れの果て、穴が空いたような死体が何体か転がっている。
加えて穴が空いたような建物も多く、中には自重で耐えきれなくなって崩壊している建物もあった。
もっと早く気付けていたらこれほどの被害を出さずにすんだだろうか?
アビスの討伐はできたものの、私は勝利した気分になどなれなかった。
そして初めて『論理の保留(アポリア)』を実戦で使った代償は大きかった。
アビスは消滅したのに私の脳や心はざわついている。
絶望が思考や感情を蝕む感触がする。
それはこの惨状だけが理由ではない。
先ほど術式を展開した時に私に問い掛けた絶望の声がずっと私に喋りかけてくるのだ。
もちろん耳を塞いでも止まるわけがなく、その声に思考や感情が否応なしに注意を引き付けられる。
結局どれだけ頭でわかっていても不安なものは不安なのだ。アビスの絶望を五感全てでそのまま感じたような私は表面的には平静を保てていても、内面は絶望の声がこだまし、恐怖が首筋を這う感覚を繰り返している。
私が望んだ事だとしても毎回この絶望を見せられるのは流石に堪えるかもしれない。
しかしそれでも私は知ることを諦めてはいけない。そうすれば私は私に絶望してしまう。
だから私はこの強烈な不快感に襲われることをわかっていてもまだ立ち止まってはいけないのだ。
そう思いながら私は絶望の声に飲まれるように、暗い水に沈んでいくように私は気を失った。
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