第9話
「ブランシュ!」
静かな広場に駆け込んできたのは、少し前に街の病院で見かけた青年だった。彼はベンチの上にいるクロネコには見向きもせずに、行くぞ、と一言だけブランシュに呟いた。ブランシュの淡い色の目が戸惑いに揺れた。
「ネロが、死んだ」
ごまかしのない真っ直ぐなばかりの言葉にも、ブランシュは表情を変えなかった。
「あんたって本当、最低ね。そんなことしか、言えないってわけ?」
かすれた声が辺りに響く。答える声は、何処にもなかった。
「嘘だって言いなさいよ。冗談だって。ねぇ…」
ブランシュの声が少し掠れた。枯れた空みたいな声だ、と、クロネコは思う。
「お願い…」
ブランシュの視線を受けた青年はゆっくりと息を吐き、短い髪をくしゃくしゃと掻き回した。それから言葉を探すように何度も口を開いたり閉じたりを繰り返し、何度目かでようやく言葉を声に出した。
「さんざん馬鹿にしてたけど、オレたちだって別に、ネロが嫌いだったわけじゃないんだぜ」
遠回りした肯定は、静かな空気を残して消えた。
雫が零れた。ぽたり、ぽたりと。
ブランシュが地面に崩れ落ちる音が聞こえた。
「間に合わなかった…」
まるでこの世の終わりみたいな、そんな悲痛な声がした。感情の篭った声が。
間に合わなくてもよかったんだ、と、クロネコは思う。黒猫の心臓なんて、きっとブランシュには手に入れられなかったはずだから。だって、ブランシュは優しい人間だったから。
爪を削られた犬も、捕らえられた黒い蝶も、羽根をむしられたカラスもみんな、街の外へと逃がしていたのをずいぶん前から知っていたから。
『間に合わなくても、よかったんだ』
クロネコの言葉は猫の鳴き声に変わり、けれど、確かにブランシュに言葉通りの意味を伝えた。
ブランシュが顔を上げ、困惑した表情でクロネコを見た。
「…ネロ?」
ネロと呼ばれていた頃のことを、クロネコは思う。それがずいぶん昔の出来事のように感じるのだから、少し、困る。
春が訪れたころ。目を覚ましたネロは、黒猫の姿になっていた。何が起こったのかも、何のためなのかもわからないまま、街を彷徨っていた。
病院のベッドに眠る自分を、妙に冷めた気持ちで見ていた。奔走するブランシュを、戸惑いながら見ていた。小言をこぼしながらも頻繁に見舞いに訪れる昔なじみやパン屋の女将を、複雑な思いで見ていた。
時間は過ぎて。誰に、何を伝えることもないまま。ただ、過ぎて。
姿は変わってしまっても、このまま生きていられるかもしれないと、どこかで期待もしていたけれど、どうやらそれも間違いのようだった。
ひどく、眠い。
クロネコは押し寄せる眠気に身を任せ、目を閉じた。
お別れだ、と、朧気に思う。側にいたこと。いられなくなること。別れも告げられないこと。全てが呆気なく終わっていく。
伝えたいことが、一つだけあった。いつも隣にいた彼女へ。一緒に過ごすはずだった未来はこんなにも簡単に潰えたけれど。どうか幸せになってほしいと、そう思う。
不意に、背中に温かい手が触れた。
舞い散る薄紅が、薄く開けた目に映る。世界が終わるには惜しいほど、綺麗な光景だった。
悲しい泣き声が聞こえたけれど、それはゆっくりと遠くなって、やがて、消えた。
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