第8話

 桜の花びらが舞っている。咲いたと思ったら端から舞い落ちていくのだから、せわしない花だと思う。

 静かな広場のベンチの上でうとうとと午睡を楽しんでいたクロネコは、近付いてくる足音に片目を開いた。

 石畳の間から健気に伸びたたんぽぽの合間を縫うように、ブランシュが歩いてくるのが見えた。

 赤い目元はひどく腫れ、やつれた手足は頼りない。薄紅色の桜の花びらが一枚、彼女の髪に一瞬だけ絡みつき、再び風に乗った。以前は透き通るような綺麗な髪をしていた、と、クロネコはぼんやり思う。

 ブランシュは今にも崩れ落ちそうなベンチの上のクロネコを見つけると、微かに笑い、隣に腰を下ろした。口元を緩めただけの、心のない笑顔。

 クロネコは身動きもせずにブランシュが口を開くのを待った。

「街から出た方がいいって、言ったのに。ね」

 ブランシュは静かな声でそう言い、ぎこちない手つきでクロネコの背中を撫でた。その手からは、微かな血の匂いがした。

「ねぇ。あんたは、ネロに似てる…」

 背中を撫でる手が温かくて、クロネコは静かに目を閉じた。

「…ネロが、ね。あたしの大好きな人、が、事故にあったの。もう、ずいぶん前のこと、なんだけど」

 途切れながら紡がれるブランシュの声は淡々としていて、ただ静かに耳元を掠めては風に流されていく。

「お医者さんは、もう。もうだめだって、言うの」

 ゆっくりと。ゆっくりと。零れていく言葉は雫に似ていた。ぽたり、ぽたりと落ちていく。

「でも、ね。魔術師のおばさんは、大丈夫だって言うの。黒いものを集めてきたら。そうしたら、ネロを助けられるから、って。古い本に、書いてあるからって」

 黒い石。夜空を映した露草の雫。黒い犬の爪。黒炭。黒い蝶の鱗粉。カラスの羽根。一生懸命、集めたよ。

 それは、一つの優しさだった。未来に掛けた願いとか、側にいたいと思うこと。大好きだって感情だとか。そんな気持ちで構成された、狂気にも似た、一つの優しさ。

「でもね」

 声が途切れて、クロネコの背中を撫でていた手も止まる。一つ、息をついてブランシュは言葉を続けた。

「あとひとつ、足りないの。ネロを助けるのに、あとひとつだけ、足りないの」

 春の日差しは穏やかで、鳥の鳴き声が遠く聞こえた。

「黒猫の心臓が足りないの」

 ブランシュはそう繰り返して、スカートのポケットをさぐった。

 クロネコは目を閉じたまま、身動きもせずにブランシュの言葉を聞いていた。

「あたしは、ネロを助けるの。だから、ごめんね」

 声が、僅かに震えた。ブランシュが手を振り上げた動きや微かに乱れる呼吸の感じや、冷たい刃物の気配なんかが、穏やかな空気を通して伝わった。

 そのまま。

 そのまま、ほんの少しの時間が過ぎた。

 ブランシュは震えのひどくなっていく手で小さなナイフを翳し、クロネコの背に片手を乗せたまま、浅い呼吸を繰り返していた。

 時が止まったような錯覚の中でも、風は吹き抜け、日差しは注ぎ続けた。世界の終わりがこんな風に穏やかだったらと、クロネコは思う。静かで、暖かくて、心地がいい。

 止まったような時間を裂いたのは、唐突に聞こえてきた荒々しい足音だった。クロネコはゆっくりと目を開いた。

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