第7話
パン屋の扉が開いて、銀色のドアベルが澄んだ音を奏でた。忙しい昼時を過ぎて、ようやく客の波が引けたところだった。
絆創膏だらけの両手でゆっくりと扉を閉めたのは、伸び始めた髪を質素に束ねたブランシュだった。彼女は奥で店番をしていたネロを見つけると、一瞬だけ嬉しそうな表情を浮かべ、それからすぐに怒ったような顔でずかずかと店内を横切った。棚に並べられた焼きたてのパンには、いっさい目もくれずに。
「あんた、何してんの?」
表情をそのまま声に出したような苛立った口調に、ネロはいらっしゃい、という挨拶を飲み込んだ。
「何って、店番」
見ての通り、というネロの言葉は、ブランシュの怒鳴り声に掻き消された。
「何でこんな所で働いてるのかって話をしてんの!」
店の奥から大きな足音が近付いてくるのを感じ取って、ネロは困った表情で両手を上げた。
「ネロ!お客じゃないんなら外でやりな。休憩時間を過ぎたら容赦しないよ」
恰幅のいい女将さんに名前を呼ばれ、ネロは情けない笑顔を浮かべて立ち上がった。ブランシュの手を取って今しがた彼女が入ってきた扉から外へ踏み出す。深みを増した青空にひつじ雲が浮いていた。
学校を辞めたこと。街のパン屋で働き始めたこと。元気でいるのかとか、生活は軌道に乗ったのかとか、そんな内容の手紙を出したのは三日前のことだった。
店の裏手で足を止めたネロに、ブランシュは恨めしそうな視線を投げかけた。
「あんた、あたしを馬鹿にしてんの?」
言葉と一緒に突きつけられたのは、三日前にポストに入れた手紙だった。くしゃくしゃに握りしめられた跡が、ブランシュの気持ちを語っていた。
「別に、馬鹿にしたつもりは少しもないけど」
「何処が馬鹿にしたつもりはないっていうの?働くしか道がなかったあたしへの同情のつもりなの?自分も一生懸命働いてますって?」
問いかけばかりのブランシュの声に、次第に涙が混じっていく。
「馬鹿にしているわけじゃないなら…」
「ねぇ、ブランシュ」
ネロの声に遮られて、ブランシュは言葉を止めた。
「あのさ。俺、やりたいことができたんだ」
「何よ。やりたいことって?」
まだ不機嫌なブランシュの声にネロは困ったように笑い、遠い空へと視線を上げた。白いばかりのこの街に息苦しさを感じるたびに、あの定まらない青に手を伸ばして凌いできた。
「働いて、金貯めて。そんで、この街を出ようと思うんだ」
優しい街の住人の、優しさの裏にある蔑みだとか、嘲りだとか。そんな世界で生きてきたけど。
「両親から聞いたことがあるんだ。見渡す限り、地平線まで広がる空とか。宝石みたいな色をした海。どこまでも広がる雪原とか。街の外には、そんな景色があるんだって。そんな世界を、見に行きたいんだ」
「あんたは、見たこと無いの?」
「俺は父さんと母さんがこの街に住み着いてから、生まれたからね」
知っているものと言えば、せいぜい日ごとに色を変える空だとか、名前も知らない鳥や花。真っ白いだけのこの街で生きてくものだとずっとずっと思っていたけど。
「そう。ネロも、どこかへ行くって言うの」
不安に消え入りそうな声で、ブランシュが呟いた。
「うん。だから、さ。その」
ネロは青い空とすっかり俯いてしまったブランシュの間に視線をさまよわせながら、戸惑いがちに言葉を続けた。
「ブランシュも、一緒に行かないか?」
ネロの言葉に、ブランシュが勢いよく顔を上げた。疲れた目元に滲んだような一人ぼっちの淋しさだとか。不安な気持ちの欠片とか。そんな心を、わかっているから。
「あー。その、な。俺はさ、側にいるから」
お互いしがらみなんかないのなら、白いばかりのこんな世界に捕らわれている必要もない。
「うん。いや。ていうか、俺はさ。側にいてほしいわけ、で」
ブランシュは怒ったような表情のまま睨みつけるようにネロを見ていたが、やがてため息をついて口を開いた。
「バッカみたい。あんたは自分がとびっきり優しい人間だって言いたいわけね?」
言葉とは反対に明るい口調に、ネロは眉の下がった情けない笑顔を浮かべる。
「優しさなんて、案外バカみたいなもんじゃないのか?」
その優しさも、突き詰めていけば感謝とか幼なじみの縁だとか、好きだっていう気持ちとか。いろんなものが混じってるけど。
いろんな思いの混じる優しさで、ネロはブランシュに手を差し出した。
「一緒に行こう。いつか、必ず」
「バッカじゃないの。あんたなんか側にいてくれたって、全然嬉しくないんだから」
ブランシュは口の端を無理矢理下げたような仏頂面で、言葉とは裏腹にネロの手を取った。
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