第4話

 クロネコは病院の中庭を囲む冷たい柵をすり抜けて、街へ出た。

 小さなパン屋や古めかしい構えの靴屋、賑わうカフェなんかの立ち並ぶ通りを過ぎて。喧噪や話し声、春に浮き立つ陽気な雰囲気。日当たりのいいアパートや可愛らしい家が続く路地を抜ける。食べ物の匂いや、風に揺れる洗濯物。誰かを呼ぶ声。

 気ままな足取りはやがて、小さな広場に辿りついた。

 蕾の開きかけた桜の木。名前も知らない彫刻家の作ったらしい、古びた像。わずかに置かれた遊具と、風雨に晒されたベンチ。中央の噴水から四方に延びる水路沿いに、菜の花やたんぽぽが咲いていた。花の間を蝶が舞う。白。黄色。淡い紫。そして、黒。

 昼下がり。広場には、二十歳くらいの女性の姿があるだけだった。

 一見すると子供と見間違うほど小柄な体型と、それに似合わない大人びた顔立ち。疲れた表情ときつく結ばれた口元。淡い茶色の目は、どこか冷たく暗かった。この街では当たり前の白い髪は首の後ろで纏められていたけれど、あちこち乱れて、くたびれた雰囲気を強調していた。薄い青のワンピースが風に踊る。

 彼女は皺の寄った今にも破れてしまいそうな紙袋を片手に、足下の草花に集う蝶を追いかけていた。

 特別面白い光景ではなかったけれど、クロネコは足を止め、色褪せて今にも崩れそうなベンチの脇でその様子を観察する。

 視界を行き交う蝶たちは、彼女をあざ笑うようにひらりひらりと不規則に動く。それを追う人影も、くるりくるりと踊るように辺りを駆けた。

『何してんだよ?』

 クロネコの問いかけは猫の鳴き声に変わって、風の吹く広場を巡った。

 せわしなく動いていた人の手が止まり、静かな視線が向けられる。彼女はクロネコの艶のある毛色に一瞬だけ驚いた顔をし、それからすぐに表情を消した。

 紙袋が再び口を開いて、そのうち間抜けな一匹がその中に飛び込んで捕まった。大きな翅の、クロアゲハ。

 彼女は妙に安心したような、なぜだか今にも泣き出しそうな顔をした。袋の口がしっかりと握られて、出口がなくなる。クロアゲハが内側で懸命に飛び出そうともがいているのだろう。紙袋に翅がぶつかって、パシリ、パシリと乾いた音が響いた。

 彼女は冷たい表情で、袋の口を閉める手を見つめただけだった。

「ブランシュ」

 広場に、かすかな足音と人の声が飛び込んだ。

 現れたのはブランシュと呼ばれた人間と同じ年頃の女性だった。

「こんなところにいたの。もう、休憩時間は終わるわよ」

「ごめん。もう、戻るつもりだったの」

 ブランシュはくたびれた顔で弱々しくそう答えると、迎えに来た女性と連れ立って街の方へと歩き始めた。

 クロアゲハの抵抗の音が、耳に届く。だんだん弱く。途切れ途切れに。

『放してやったらどうだ?』

 クロネコの鳴く声は、ブランシュには届かなかった。

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