第2話
春の暖かい風が耳元を吹き抜けていく。人の声が聞こえて、クロネコは黄色いガラス玉のような目を開けた。
日当たりのいい屋根の上から辺りを見回すと、すぐ下の階の張出窓が開かれていた。何となく思い立って屋根を降り、窓辺に置かれたガラスの花瓶の隣に座り込む。
部屋の中ではカーテンの間仕切りを開いて、人影が三つ、入ってくるところだった。
「よぉ、ネロ」
「相変わらず、か?」
「まだ、起きないんだね」
まだ若い男が二人と、女が一人。三人はクロネコに気付くこともないまま、窓辺にあった椅子に腰掛ける。
「こうして来てあげてるんだから、少しは感謝して欲しいよね。私たち、すっごく優しいわ」
部屋の中には真っ白なベッドが置かれていて、そこには四人目の人間が眠っていた。先ほど入ってきた若者たちと変わらない年齢の青年。この街には珍しい黒い髪が、頭に巻かれた包帯の色を引き立たせていた。
黒髪の青年は、目覚めない。
「ブランシュ、こっちにも居ないんだね」
花瓶に入れられた枯れかけの菜の花を、赤い天道虫が上っていく。女の声に、別の言葉が続いた。
「あいつ、最近妙なことしてるらしいぜ。黒炭の欠片を必死に集めてたって」
「何、それ。ショックで頭でもおかしくなっちゃったわけ?」
「……そう言うなよ」
一人がため息をついた。その時だった。部屋の奥の引き戸が開いて、恰幅のいい婦人が部屋に入ってくるのが見えた。
「おー、おばさん」
今しがた仲間を諌めた男が、明るい声音で来訪者を歓迎する。
「あれまぁ。あんたたちも来てたのかい」
気のいい返事をした年輩の女性はベッドに近付くと黒髪の青年を一瞥し、片手に持っていたバスケットを先に来ていた三人組に差し出した。
「一応持ってきたんだけどね。無駄になっちまうから、あんたたちでお食べ」
バスケットを受け取った青年が、掛かっていた白いハンカチを取る。焼きたてのパンの香りが辺りに広がった。
「おばさぁん、これ食っちまっていいの?」
嬉しそうな声に、お礼の言葉が続く。
「まったく、いつまで寝てるつもりだろうね。仕事があるってのに」
歓声にすら反応を示さない黒髪の青年に向かって、どこか棘のある調子で婦人が言う。クロネコはその言葉を小さな耳で拾い続けた。視線の先で、赤い天道虫が飛び立つ様子を見ながら。
「あんたたちは優しいねぇ。こんな余所者にもちゃんと友達がいるなんてね」
感心したような婦人の声に、照れたような笑い声が続く。
この街は、優しい。
クロネコは先ほどから繰り返される言葉を頭の中で思い描く。そこら中に溢れている優しさってやつを、パーセンテージで表してみる。
建前だとか。偽善とか。どこか感じた優越感。そんなもので構成された、混ざりものの優しさを。
仕方がない。本当の、まじりっ気ない優しさなんて、きっとどこにもないんだから。
『馬鹿馬鹿しいよな』
侮蔑を含んだクロネコの呟きは猫の鳴き声に変わって、日差しの中を泳いだ。
その声に気付き、振り向いた婦人と目が合う。
「いやだよ。黒猫じゃないか」
途端に彼女は眉根を寄せて、窓辺の日溜まりに近付く。
「しっ、しっ。どこかお行き」
「ネロの飼い猫だったりして」
笑いを含んだ若い女性の声が続いて、再び笑いが起こる。
「そういえばさぁ、最近黒猫とかカラスとか、見かけなくなったよなぁ」
男の一人が呟き、別の声がそれに答える。
「なんかの腹いせに野良猫とか狩ってるやつがいるらしいぜ。怖いよな」
「やだ、何それ」
「この街に、そんなひどい人間がいるわけがないじゃないか。馬鹿なこと言うもんじゃないよ」
婦人が呆れ顔で話を遮り、猫を追い出そうと腕を振る。
クロネコは伸びてきた手を避けると、窓の外へと飛び出した。澄んだ空気が体中を包みこむのを感じる。肌が日差しの温かさを感じ取り、鳥のさえずりと柔らかい風の音が耳に届いて、人の声をかき消した。
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