男が少ない世界で、弟とお風呂に入りたいお姉ちゃんのお話

おにぎり

第1話

「ねぇ連、今日お風呂どうする?一緒に入る?」


 夕飯の皿洗いをしながら、いつものように声をかけた。

 ……けれど、帰ってきた返事はいつもと違っていた。


 ソファに座ってお茶を飲んでいた連が、コップを置き、ゆっくりこっちを見た。


「……姉ちゃんさ」

「うん?」

「もう、一緒に入るのはやめよう」


 ──え?


 胸の奥がすっと冷たくなるのを感じた。

 言葉の意味は分かるのに、心が追い付かない。


「……やめようって、なにを?」

「いや、お風呂を、一緒に入るの」

「うん、それは分かってるけど……なんで?」

「いや、なんとなく。もうそういう年だし」


 連はもうすぐ16歳。

 まだ少し幼さの残る顔立ちだけど、身だしなみにも気をつかうようになって、姉の私から見ても、真っすぐで清潔感のある”いい子”に育っている。ただでさえこの国では男子が少ないから、学校でも人気があるらしい。


 ──でも私にとっては。

 小さいころからずっと一緒にいて、どんな時も守ってきた大事な”かわいい弟”で。

 そんな連に距離を置かれるなんて、考えたこともなかった。


「……連、学校で何かあった?」

「別に、なんもないよ」

「じゃあ、どうして急に?悩みならお姉ちゃん何でも聞くよ?」

「なんでもないって!……だから、もうそういうことだから」


 そう言い残して、連はそそくさと部屋に戻っていった。

 その背中を見送ると、いつの間にか自分より広くなった肩幅に気づいて、

 私はひとり、洗いかけのお皿を手にぼんやりと立ち尽くした。


 ──本当に、別々に入るの?


 小さなことから一緒にお風呂に入って、洗いっこしたり、おしゃべりしたり。

 あの時間が、もう終わってしまうなんて。


 連が私から離れていってしまう──?


 ダメ、そんなのダメだ。寂しくて耐えられない。

 私は静かに決意した。


 もう一度連と一緒にお風呂に入ることを。


 ──────────────────────────────────────


 結局その日のお風呂は、別々になった。


 翌朝。

 トーストを焼きながら、昨日のことをぼんやりと思い返す。

 いつもなら、夕飯のあと、テレビを見ながら他愛もない話をして、

「姉ちゃん、風呂先入っていいよ」なんて言ってくれてたのに。

 そのやりとりが、もうない。

 ただそれだけのことが、胸にぽっかりと穴を開けたようだった。


 食器を並べながら、私は小さなため息をつく。

 蛇口から流れる水の音が、やけに冷たく聞こえた。


 ──本当に、もう一緒に入らないの?


 お風呂が目的じゃない。

 ただ、あの時間が好きだっただけ。

 温かい湯気の中で、なんでも話せて、笑い合えたあの空気が。


 ……たぶん、連もそうだったはずなのに。


「……ふぅ」


 朝ごはんをテーブルに並べたとき、階段を降りる足音が聞こえた。


「……おはよ」


 寝ぐせ頭の連が、まだ眠そうに表れる。

 ぽわっとした表情がかわいくて、思わず笑ってしまう。

 この何気ない朝が、いつまでも続けばいいのに。


「なに? どうしたの」

 いぶかしんだように見上げるその顔に、私は思わず口をついて出た。


「……別に。連は今日もかわいいなーと思って」

「え、なにそれ」

「変かな?」


 そう言って、二人で椅子に座って朝ごはんを食べ始めた。


 「昨日の話、考え直した?」

 「……なにが」

 「お風呂。一晩寝たら、やっぱ姉ちゃんと入るかーってなってない?」

 「なってない」


 即答だった。

 連は困ったように視線をそらし、

「……姉ちゃん、俺も一応もう男なんだよ」と小さくつぶやいた。


 気づいてなかったわけじゃない。ずっと見てきたんだもの。

 ここ数年で背が伸びて、声も低くなって、

 少年だった子が少しずつ”男”になろうとしてる。


 成長が嬉しいはずなのに、

 そのせいで生まれていく距離がどうしようもなく寂しかった。


「ごちそうさま」


 連は食器を流しに置いて、「行ってきます」とだけ言って出ていった。

 ドアの閉まる音が、やけに重く響いた。


 私は小さく息をつく。


 ──たぶん、これが普通なんだろうな。

 男子が少ないこの国で、男の子が”自立する”って、

 たぶん、こうやって“お姉ちゃん”を置いていくってことなんだ。


 頭では分かってる。

 でも――心が追い付かない。


 やっぱりあきらめられない。

 連が離れていくことなんて、受け入れられない。


──────────────────────────────────────


「そりゃ弟君が正しいでしょ」

 向かいに座るのは、大学の友人・真紀。

 赤いリップにゆる巻き髪、いかにも“今どき女子”。

 男子比率三割のこの大学で、彼氏がいる彼女は、いつもどこか余裕のある笑みを浮かべていた。


 昼休み、講義帰りのカフェテリア。

 トレーの上のアイスティーをいじりながら、私は昨日のことを話していた。


「ていうか、いままでずっと一緒にお風呂入ってたの?マジで?」

 真紀があきれ顔で言う。


「そんなに変……かな?」

「変でしょ!いくら弟でも、高校生だよ?あんたもう二十歳でしょ……」


 そう言われると、確かに。

 二十歳の女子大生が男子高校生を家に連れ込んで一緒にお風呂、

 文字にすると完全にアウトだ。


「で、でも連は弟だし……別に変な気持ちとかないし」

「変な気持ちがあったらマジで事件だわ。いい?十六歳の男の子って、本当に多感なんだから。あんたがぼーっとしてると、弟君が困るのよ」


 その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。

 ぼーっと、してたのかな、私。

 でも、これからどうやって連と向き合っていけばいいかわからなかった。


「どうしたら……いいのかな」

「まず、弟じゃなくて、一人の男として扱ってあげること。そりゃちょっと距離を感じるかもしれないけど、あんたもそろそろ”弟離れ”しなきゃ。」


 ……知ってる。

 ここ数年でよく聞くようになった、“男子の自立”みたいな話。

 この国では男子が貴重だから、早くから自立を促される。

 女の子が男子の世話を焼くのは当たり前、でも男子が距離を取るのは”立派な成長”だと褒められる。


 それでも私は、

“弟が自分から離れていく”現実をまだ受け入れられなかった。


「ていうかさ、弟くん絶対モテるでしょ?彼女でもできたんじゃない?」

「……彼女?」

 その言葉が、頭の中で反響する。

 連に彼女……?


 そんなの、連は弟で、まだ子供で、彼女とかそういうのはまだ全然早くて。

 いや、でも、もし本当にそうだったら──


「彼女ができたらさ、お姉ちゃんと一緒にお風呂なんて恥ずかしいでしょ?そういうことなんじゃない?」

「そん……なこと……」


 胸の奥でドクンと音がした。

 想像してしまった。

 知らない女の子と笑いあう連の姿を。

 その隣に私の居場所がなくなる光景を。


 紅茶の氷がカランとなる音だけが響く。

 喉の奥がきゅっと締まって、うまく息ができない。

 ”彼女”

 その言葉の輪郭が、胸の奥にじわりと広がる。


「連くん、かっこいいからね。そりゃ女子がほっとかないでしょ。彼女できたら、あんたなんか構ってる暇──」

「そんなのだめ!!!」


 気づけば声が出ていた。カフェテリアの空気が一瞬とまる。

 真紀の目が驚きで見開かれた。


 私はうつむいた。

 頬が熱くて、心臓が暴れるみたいに痛くて。


「……そんなの、やだよ……」


 ぽろぽろと涙がこぼれた。

 止めようとしても止まらない。

 連がほかの女の子に取られちゃう姿が想像できてしまって。


 たぶん私は、

 もう”お姉ちゃん”だけじゃいられない気持ちを、

 とうの昔に抱いていしまっていたのかもしれない。

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