第2話 長距離走者の孤独な興奮

(清水 玲央 視点)


 清水玲央は、陽菜からのメッセージを、思わず三度、四度と読み返した。


 それは、午後九時を過ぎた頃、静寂に包まれた自室のベッドの上で届いた。玲央が大学のレポートを終え、長距離走の練習で酷使した脚をストレッチしている最中のことだった。画面に表示された文字は、簡潔すぎるほど簡潔だった。「悠人くんからの依頼なんだけど、玲央に頼みたいんだって」。末尾に添えられた汗の絵文字は、陽菜の複雑な心境を代弁しているようにも見えた。そのたった一文が、玲央の長年の片思いという、深く澱んだ湖面に、巨大な石を投げ込んだ。水は静かでありながら、底知れない波紋となって彼の全身を揺さぶった。


 彼は、身長百八十センチの長身をベッドに投げ出したまま、天井を見つめた。夜光塗料の貼られた天井の星は、普段は冷静沈着な彼の瞳の中で、深い興奮と葛藤の光を帯びて揺らめいていた。長距離走のトレーニングで鍛え抜かれた彼の指関節は、スマートフォンを握る力によって白く浮き上がっている。その力は、トラックを周回する時に発揮される、持久力と忍耐の力だった。


 (悠人の依頼? 陽菜が、俺に……)


 悠人の倒錯的な性癖については、以前から薄々気づいていた。グループで集まった時の、冗談めかした口調の中に垣間見える、自己中心的な支配欲。陽菜への執着の裏にある、不安定で短絡的な軽薄さ。それらが、まさか自分の人生に、これほど決定的な形で介入してくるとは予想していなかった。だが、その背徳的な事態こそが、玲央にとっての運命の転換点であるという直感が、抑えきれない興奮となって全身を駆け巡った。


 高校の陸上部時代、玲央はただ黙々とトラックを走り続けていた。五千メートルを専門とする彼の練習は、常に孤独を伴った。陽菜と悠人は、百メートル、四百メートルの短中距離走。彼らは、スタートラインから瞬時に目の前から姿を消し、互いの汗の匂いを分かち合い、隣り合わせで笑い合っていた。玲央は、彼らと同じトラックにいながらも、常に物理的な距離があった。その距離こそが、悠人に陽菜を奪われた決定的な原因だと、玲央は心の底で信じ続けてきた。悠人は、「短距離」の瞬発力と近さで陽菜を射止めた。玲央の陽菜への愛は、長距離走のように長く、報われず、しかし諦めの悪いものとして、孤独な時間を走り続けたのだ。


 長距離走の孤独は、玲央に二つのものを与えていた。一つは、疲労の向こう側にある揺るぎない精神力と、強靭な肉体のスタミナ。もう一つは、陽菜のすべてを遠くから見つめ続ける間に蓄積された、童貞とは思えないほどの性的な知識、つまり、どうすれば陽菜を本当に深く満たすことができるのかという、緻密な予習だった。


 (あの瞬発力だけの悠人に、俺の長年の努力が負けるはずがない)


 玲央は、陽菜が悠人に対し、性的能力の持続性という点で不満を抱いていることを、幼馴染としての観察眼から気づいていた。悠人は、短距離ランナーとしての瞬発力に優れる一方で、行為においては早漏気味で、いつも一回で限界を迎えていた。陽菜の持つハードル走で鍛えられた体力は、悠人にとって常に満たせない欲求の象徴だったに違いない。悠人が自分に代行を求めたのは、自分の短距離走的な能力の限界を認め、玲央の長距離走的なスタミナに、その役割を押し付けたことに他ならない。


 これは、親友からの屈辱的な敗北宣言であると同時に、玲央にとっては愛の成就と自己の能力の証明を兼ねた、絶対的な優位性の機会だった。親友への罪悪感は、長年の片思いが報われるという純粋な喜びと、陽菜の真の快感を解放するという自己肯定感によって、瞬く間に押し流された。


 玲央は、天井の星から目線を下ろし、陽菜の姿を脳裏に思い浮かべた。ショートカットの髪型、ボーイッシュな身体つき、そしてハードルを飛び越える時に見せた、引き締まった腹部の筋肉。そのすべてを、悠人の軽薄な欲望を介して、自分が深く長く独占できる。その事実に、彼の体は歓喜と緊張で震えた。この緊張は、五千メートル走の最終周、ラストスパートをかける直前の、全身の筋肉が収縮するような、研ぎ澄まされた緊張感だった。


 彼は、立ち上がり、窓を開けた。夜の湿った風が、彼の顔を撫で、高鳴る鼓動を鎮めるように深呼吸を促す。その呼吸は、練習で身につけた、体力の消耗を極限まで抑えるための、深く長い呼吸だった。


 (俺は、悠人の欲望を満たすために走るのではない。陽菜を、長距離のように長く深く愛するために、走るんだ)


 彼は、陽菜のショートカットの髪を掻き乱しながら、何度も絶頂させる光景を想像した。彼女の体力を奪い尽くし、彼女に「もう無理」と言わせるまで抱き続ける、長距離ランナーとしての圧倒的な優位性を、彼は確信していた。


 玲央は、スマートフォンを手に取り、メッセージの返信を打ち込んだ。その指の動きは、一切の躊躇や感情的な揺らぎを見せず、ただ、レースの準備を進めるかのように冷静だった。


「わかった。悠人には、何を撮るか、詳細に聞いておく。具体的な日時と場所を教えてくれ。週末の夜、陽菜の家でいいんだな?」


 メッセージを送信した瞬間、彼の胸の奥で、長年抑圧されていた熱いマグマのような感情が、静かに噴き上がった。それは、親友の裏切りという背徳のスタートラインに、長年の愛という最終的なゴールを設定した、静かで強烈な決意の炎だった。彼は、このレースの勝者が、自分であることを知っていた。愛とは、瞬発的な情熱ではなく、継続と責任にあるのだから。


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